新・議論エントリーその2

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“新・議論エントリーその2” への344件の返信

  1. 弁証? 絶対矛盾の自己同一みたいな?

    「いやいや、そんなこと言ってない….」
    「内在してるニダ」
    「いや、だから….」
    「傾向が主張してるニダ」
    「待て待て」
    「判定したニダ」

  2. 注射星人さんが言おうとしている事を、推測してみました。
    と言うか、ふだんから私自身が考えている事でも有りますが。

    まず「科学と宗教の違い」を「懐疑についての差異」と考えてみたとしても、
    せんじ詰めれば「科学と宗教は同じもの」、
    つまり、科学も認識も「人間の世界認識の形式」から導き出されるもの、です。
    世界認識は「世界をどう理解しているのか」と言い換えられます。

    問い「わたしたちは、世界を、どう理解しているのか」。
    さて、この問題をさらに分解すると、
    「世界とは何か」「わたしとは何か」「理解とは何か」です。
    ※「わたし」と「わたしたち」の間にコミュニケーションは成立しているのか、という大問題はおいといて。

    この論点の整理が、注射星人さんの中で「他者に説明できるように整理されていない」のだと思います。
    特に「理解とは何か」に関して。
    これを何とか表現しようと悪戦苦闘しておられる。

    「他者に説明できる」とは「コミュニケーションは可能か」という哲学的な問題と「具体的な意思疎通」というテクノロジーの問題から成っています。
    注射星人さんの説明が分かりにくいのは、
    「哲学的なコミュニケーション論」と、「具体的な意思疎通の主な手段:言語」を混同しているからです。
    前者はいい加減なところで妥協しておいて、後者に重点をおかないと、議論が始まりません。
    ですから「哲学的な言語論」じゃなくて「会話をかみ合わせるための、基礎語彙の共有」を。

    世界認識は、次のように成立している、と私は考えています。
    「外界を知覚する」は、「自己と他者が存在するという表象」を生みます。
    ※表象という哲学用語は「何かに関する漠然としたイメージ」とでも思ってください。
    分解すると、
    「自己ではないモノは、どのように【在る】のか」=「わたしは自己ではないモノを、どう知覚しているのか」
    「自己ではないモノを表象している【わたし】とは何か」
    という二つの原初的問いが生じます。

    さて、その表象が「明確性」を帯び体系化されて「概念」となる、と考えましょう。
    そして「このわたし」の他にも「自己」が在るらしいと想像するようになります。外界を観察して表象を積み重ね体系化が進むと、そういうふうに「世界を想定する」のが「もっとも妥当だ」と「帰納的にとりあえずの結論を出し」ます。
    ふつうの言葉で言う「ものごころがつく」とは、そういう事です。

    で「他の自己たち」が「言語」を使用しているのをまねて、用法に習熟すると、自分も、その「体系化された概念」を「他の【自己】と情報交換する」ようになります。

    ここまでの過程で、
    「概念の形成」
    「言語集団への参加」
    という二つの現象が成立しました。
    この上に「認識」が成立します。

    注射星人さんが言うのは、
    この「概念の形成」において、
    「表象を形成する以前の知覚の在り方にも、表象のでき方にも、その概念化の過程と方向性にも、各個体によって何かしら異なるバイアス=傾向が有るだろう」、
    ゆえに「認識とは傾向に支配されるのではないか」
    ではないでしょうか。

    しかし「認識」は「情報交換」によって「共有」されます。
    ゆえに「傾向」には「標準化」という補正作用が伴います。
    各個体の傾向が情報の共有によって標準化されたものが、各個体にとっても「認識」です。

    とりあえず、1回目はここまで。

    1. とろいやさん
      >注射星人さんが言うのは、
      この「概念の形成」において、
      「表象を形成する以前の知覚の在り方にも、表象のでき方にも、その概念化の過程と方向性にも、各個体によって何かしら異なるバイアス=傾向が有るだろう」、
      ゆえに「認識とは傾向に支配されるのではないか」
      ではないでしょうか。

       ここまでは分かりますし、多分にそういうことなんだろうなと、薄々思っていました。
       ですが、一般論としては分かるものの、注射星人さんが「認識した」個々の言明に対するバイアス=傾向の認知以上に踏み込んで、そこからそれらの言明について、
      よって、「….」と言った、と「判定」してから自分の論?を進める。さらにはその正当性が「カント理論ガー」とか「弁証法ガー」とか「デリダガー」と言うことで担保されたと主張する。
      これは何なのか? なぜそこで安心?できるのか? そうした心性の存在が疑問なのです。
       こうした理路が過去現在そこここで繰り広げられているのではないか、デジャビュを見ているようで目が離せません。
       私は何か誤った見方をしているのでしょうか。

      1. 八木さんの疑問は良く分かります。

        世の中には、一を聞いて十を知るタイプの人がいます。(本物ではなくそう思い込んでいるだけの人もいますが。)
        結論が先に分かって、論理は後から付いてくるのです。しかし、他者が理解するためには何が必要かすら分かりません。そのため、他者に理解してもらうためには、意思疎通のための共通言語(言語だけではなくて公理や論理なども含む)を身につける必要があります。でも、難しいんですよ。このタイプは、それを理解するまでコミュニケーションが苦手なので、他者に興味がなくなっているのです。

        とろいやさんが翻訳できるのは、おそらく昔は自身もそうだったからです。ただし、努力して共通言語を身につけられたのです。(私も似た者ですが途上なのです…)

        1. mottonさま

          お邪魔することをお許しください。
          端くれは、
          自分が不要な理路を経由している
          と感じています。

          優秀な同僚たちの判断に必要な要素は
          自分より少ないのではないか、という仮説です。

          例えば、自分がなにか判断するときに、自分の判断を
          A→B→C→D→Eという理路で理解します。
          事後、同じ判断をした同僚とミーティングすると、
          彼らはA→C→Fの理路で説明します。
          判断の理由を説明できないこともあります。
          だから自分は判断の理由を説明するときだけ高評価でした。(
          でも実際は説明できない彼らの行動は速く
          理路整然でなくても判断は誤ることがない。

          説明を省略するのでなく、不要だから説明しない。
          そんな気がします。
          頭のなかどんな仕組みになってるんだろう。

          1. (外しているかもしれませんが、例えば数学で。)

            掛け算で、AxX=30、AxY=40、BxX=300 なら BxY=400 です。これを数式で証明せずにパッとやる、これくらいならまあ普通です。
            しかし、不明な演算子&と A&X→30、A&Y→40、B&X→300 という法則が与えられた時に、B&Y→400 と認識する。演算が足し算なら 310 なので必ずしも正しいとは限らないが、コンテキスト(問題の意図・背景)から掛け算と想定して答えを出す。いや、掛け算すら行わず、400という数字の並びが答えとする。そこまで、すっ飛ばす。
            これは普通ではないと思います。

            これが、B&X→130 なら答えは 140 なんです。なぜかって?そちらが美しいから。はい?なにそれ?
            「美しい」というのは、対称性が高い、無駄が無いってことです。低エントロピーってことかな。
            しかし、世の中は比較的「美しい」ので比較的正しいことが多いのです。「比較的」ですが。

            これをもっと複雑なものに対して社会認識全般で行うと、まあコミュニケーションに支障をきたしますよね。

          2. mottonさま
            例示とても分かりやすいです。
            コンテキストで答えるはマークシート時代のあれで自分も使いました。
            当時の選択肢だと校内学力とはかけ離れた得点を出せたんですよ。
            今の試験は選択肢の工夫が進んで無理ですけど。

            この美しいを用いる判断は理路整然と感じる端くれがいます。
            数式グチャなら仮説捨てるし、計測値がアホなら再実験ですよね。

            ありがとうございました。
            別ルートの理路で説明が困難なものが存在する、みたいな感じなのでしょう。

        2. 端くれさんへ
          そういうのは「視力の違い」みたいなものです。
          逆に見ると「A⇒C」と事物を覚知する人には、その間にBが存在することが「分からない」場合もあります。

          ※私は子供の頃「この漢字熟語を分かりやすい言い方に直しなさい」という問題が「不可解」でした。
          漢字熟語になっている言葉は、その表現が「もっとも分かりやすいから、そうなっているに違いないのに」と思っていたのです。変えたら分かりにくくなるじゃん、と。
          つまり「個人個人の【理解や認識に関する】視力の違い」が、分からなかった、子供だからね。

          ある人には見えるものが、別の人には見えない。霊的な現象だけじゃありませんwww
          知的な世界認識においても「観測装置」の仕様が人によって違う、つまり「ものの見え方は人によって違う」のが当然、という事なのです。

          そこで人間は「言語を主な手段として」コミュニケーションをとって「世界認識の共有」を行います。
          甲さんにはA⇒Cと見えているが、乙さんにはA⇒B⇒Cと見えている。その「実態」について「情報交換」するのです。
          (また別の人は、AとBの間にも何か見えているかもしれませんし、またまた別の人にとっては、A⇒Dが必然と映っているかもしれません)
          甲にとっては、世界がより細かく認識できるようになり、
          乙にとっては、世界がより広く認識できるようになります。

          そして、この認識の共有が成立すると「概念の標準化」も起こるのだと思います。

          1. 御師様

            端くれはABの間に意識がいくと理路の細分化が始まります。
            さらに細分した部位で明らかに不要な下位理論が表層に噴出して、結局収集がつかなくなるのです。

             多分、構造というよりは使い方に属する違いですね。
            反射行動みたいに脊髄によるショートカットのようなことが大脳でもできる。でもおふたりが幼少のころから使えたなら獲得形質ではない。

            あれ そうなると端くれの状態も訓練の結果 なのか。

      2. mottonさんへ
        さすが、似た者同士、その通りですよ。
        私は物心ついた頃から、直感的に結論が見えてしまうという「傾向」が強かったです。
        ゆえに「直感的に結論が見えない事は、なかなか理解できない」
        そして「他の人が、なぜ結論が見えないのかを、理解できない」

        一人で、こつこつと膨大な読書経験を積み上げて言語能力を磨き、「他人に分かってもらう、というのは、どういう事だろう」と考え続けた結果として、今の「世間と話ができる自分」が有ります。

        ついでに自慢話
        相談に来る人に「法律の説明」をすると「先生のお話は、他の先生方と違って、分かりやすい」と、よく言われます、
        日常用語に翻訳してあげるから、です。

        1. 私もその話題に参加させてください。
          時代が進めば進むほどに社会を構成する要素が別の常識や別の正義と遭遇する機会が増幅し、社会を構成する要素の各項に正義の定義の拡大、美の定義の拡大、論理の方法論の拡大が起きていく。
          その変化が社会全体の系を巻き込むほどに大きな渦を巻くのがルネッサンス。
          その衝撃が社会のシステムに変化を強制するのがショックドクトリン。
          その結果、社会の価値観そのものが変わってしまう結果をパラダイムシフトと呼称しているのだと思うのです。
          全ての起発点は同じ「異教との遭遇」なのだと思うのです。
          時代を遡れば遡るほどに同じ系の中で価値観が朱子学化しており、厳密さが研ぎ澄まされていく。
          現代を観測すれば過去に遡るほど世界の価値観は田舎化」している訳です。

          「先進国ほど美人が多い」と文化的に評価されるのは先進国ほど整形技術が進んでいるというブラックジョークのような理由ではないはずです。
          「先進国ほど多くの変化を受け入れて価値観が多様化している」という評価のはずです。

          ですので端くれさんの「私は不要な理路を経由しているのではないか」という疑問点への解釈は
          日本は情報先進国であるがゆえに小さなルネッサンス現象の乱発により格分野・個々人の専門化が急速に進んでいて、コミニケーション部門の先鋭化により十年ひと昔が三年ひと昔、三年が一年になり
          そして、誰もが事実を認識できる文明技術の変化よりも文化面の変化がリードを広げた結末、「常に意識の変化が認識に先行している」状態になった結果だと思います。
          結果的には私も皆さんと同じ場所へ着地しますが。

  3. 主張。宗教と科学は別の何か。

    用語の定義
    科学 科学者がやってること。      
    宗教 神社やお寺、教会でやってること。

    科学者 実験観察などの特定の方法で研究する人。
    信者等 神社仏閣等に出入りしている人。
    教義  宗教の中心となる何か。           
    教祖  教義の元になるなにかをソウゾウしたなにか。 
    教団  宗教はいくつかの集団で、各集団を教団と呼ぶ。

    仮説1 科学は宗教の言い換えである。

    検証法の提示
        科学は宗教の別名である。よって宗教である。
        宗教は各教団を元とする集合である。
        元である各教団は科学に属する。

        具体的には近所の教団の幹部信者に聞いて確かめる。

    観察
        危ない。危険な観察を行うことは研究の邪道である。

    推測される結果と推論。
         そうでないことは顕著な事実である。仮説は誤り。

    テイギッテソンナンデイイノ?
    コマッテルノ?ウウントクニハ
    ジャモンダイナイ。

    1. 仮説2 科学は教団の一つで、科学者は科学という教団の信者である。

      検証法の提示
          教団には教義があり、一部教団は他の教団の教義を否定する。
          よっていくつかの教団の信者は別の教団に属すことができない。
          例 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教。
          例示された教団には科学者はいない。
      観察
          いないことを直接的に観察することはできない。
          他宗教の信者である科学者は多数いる。    
          例の3教団の信者は地球全人口の約半数である。
          また科学者の多い地域と信者の分布は一致する。
          顕著な事実、 「メンデルは科学者にして司祭である」
          例の信者なら科学者は信者のふりをした背教者である。
      観察結果から
          メンデルは科学者にして司祭である。
          これを否定するのはきわめて困難。というか無理。
          仮説は誤り。

      メンデルダケ?
      ハンショウハ ヒトツデ イイ。

  4. では、常連の皆さん。一応納得したことにして、この宗教と科学は同じモノというテーマは私の内に持ち越しますので、戦前の日本国内で日本式民主主義を成立させていた経済ロジックを考えてみてもらえませんか。

    どうやって日本式民主主義は資本主義の自己増殖的な暴走を抑え込んでいたのでしょうか。

    いかなるロジックが生まれて意識の規律を保てていたのでしょうか。私には言語の構造が内観を鍛える訓練になっていた以外の方法があったとは思えないのですが。

    何が作用して天皇制度を完璧に近く成立させて、どのようなロジックが働き、何が天皇自身の情緒の暴走ですらも監視していたのでしょうか。
    三島由紀夫の確信の中には何が住んでいたのでしょうか。
    どうすれば民主主義が、資本主義の凶悪な自己増殖的な作用を抑えられるのでしょうか。

    それを日本と世界の誰もが納得出来る形で示せなければ、1月9日以降の世界は新秩序の作用が始まっていて、世界は中華思想の地獄への自己増殖的スパイラルに飲み込まれていくという確信があるのですが。

    1. 議論が成立しそうになってきて、良かったです。
      で、気付いた事をいくつか。

      1、「【宗教と科学は同じ】が、真か偽か」は、議論をどういう階梯で展開するかによって、結論が違うのです。
      このテーゼは、「人間の精神の構造」を、ずっと基礎的なところまで「掘り上げて行く」と「真」となります。
      けれども「日常に即するレベル」に近いところで論じると「偽」なのです。私は、後者を述べておりました。

      2、「民主主義」と「資本主義」は、異なる分野なので、本来対立関係に有りません。
      それぞれの派生的原理が対立します。
      もっとも「派生的原理」と言っても、それは「本質的要素の拡張」であって「付随的」という意味ではありませんが。
      そこを押さえておきましょう。
      「民主主義⇒人類全体の福祉の充実」
      「資本主義⇒ハゲタカ化による富の独占」

      3、1月9日で区切る必然性はありません。
      また「テーゼの提示」によって「世界をどうにかする」ためには、何年も何十年も、下手すると何百年もかかります。
      地獄への道も、ふつうへの道も、とても長いです。
      ※「地獄への道」は分かりやすいでしょう。で、その反対概念を、私は「ふつうに生きられる世界への道」だと考えています。
      そして、この「ふつうへの道」は「凄い難路」です。

      4、世界を地獄へ導くのは「中華思想」これは、その通りですが、
      その前に論じていたのは「資本主義(のハゲタカ化)」が「民主主義の抑制作用を食い破る」だったので、
      「資本主義(のハゲタカ化)」と「中華思想」の関係を整理しましょう。

      1. >とろいやさん

        >「資本主義(のハゲタカ化)」と「中華思想」の関係

        堂々巡りになってしまいますが、資本主義はダンバー数の鎖で繋がれた集団
        これをポジションから見た視界の変化によって、国家とも民族とも企業とも言い表せますが、その固有集団が帯びている傾向が「自分は存在する個性」という確信または信念に縛られているからではないでしょうか。
        自分という個性の解釈論の帰結するところは、自分とは五感のセンサー情報を含めて得てきた情報を溜め込む移動式のディスクドライブであるとも定義できると思います。
        すると感情を発露させている本体のサーバーは別にあり、自分はドミニオンのようなモノと言い換えられると思います。
        つまり自分の主体はサーバーの方であって、移動する個性が自分であると認識している自分は本体ではないという命題が成立するはずです。
        この関係性は「誤解のロジックの成立方法」にあるのではないか考えます。

        1. どうして皆さん、こんなに賢こくて聡いのに、こんな当たり前のところで思考が詰まりを起こしてしまわれるんですか。
          我々が宇宙を知覚したり社会を理解する方法の終末点は全て五感に収斂しているじゃないですか。
          視覚は光の反射を網膜を介して反転した像を脳に修正させる。
          聴覚は音の波を鼓膜を介して脳に伝える。
          触覚とはマニピュレーターですよね。
          味覚とはエネルギーに変換する対象が含有している歴史の味見ですよね。
          嗅覚とは歴史の毒味ですよね。
          おそらく、ここの味覚と嗅覚の解釈の理解が整理されていない事に思考の脈絡が目詰まりを起こしておられる原因があるとしか考えられない。
          私もココを端折って教育された覚えがありますからね。

          1. 注射星人さん
            あせらないで

            レスがないのは理解できないからではありません。

            今のあなたにレスをしてくれるのはふたりだけです。
            理解できない端くれだけが対話をしていたとき。
            理解できていた我が師はレスをしなかった。

            二人を比べれば、レスがないのが
            「わからないから」ではないことは明らかです。
            私たちを、だれかがサポートしていること、
            気が付きませんか。みんな見てます。
            興味を持っている人の存在を意識してみてください。

          2. 注射星人さん
            「ですよね」って言われても困ります。
             あなたの「ですよね」は、私はとても受け入れることができないので、いちいち「ちゃう!」ってコメントしなければならなくなる。
             どう読んでも「ですよね」は「です」で済んでしまう話ではないですか。
             日本語は大切に。

        2. お邪魔します。

          端くれもコメント見てるんですよ。
          できるだけ端くれがわかりそうな感じで願いします。
          ヨメテイル ノカナ

          用語は端くれでも探せます。
          (`・ω・´)シラナイ コトバ ダ
          でもまだ文が長すぎてむずかしい。
          (。•́︿•̀。)イミガ ツナガラナイ

          1. 我々の食事とは捕縛した対象を胃という発電所へ送る行為ですよね。
            そこで捕縛された対象はエネルギーと廃棄物に分けて変換される。
            ここでエネルギーに取り入れられている野菜や肉やペーストという対象は元はなんでしょうか。
            我々と同じ生命ですよね。
            ですから我々日本人は捕縛した生命に感謝して「いただきます」という感謝の言葉を伝える。
            欧米人は神に恵みの感謝の祈りを伝える。
            食事という行為は広義では対象の生命への殺戮ですよね。
            ですから対象に許しを乞う必要がある。
            ここで脳の脈絡は社会性へ回帰する行為とエネルギー循環へ回帰する脈絡を分類しているんですよ。
            この作業が整理されておられないからせっかくの鋭い賢さと聡さが機能していない。
            私にはそうとしか考えられないです。
            行為を理解はできても解釈ができておられない。
            これは下から目線でのお願いです。
            解釈のキッチンを磨いてくださいませ。

          2. そのレスではもう

            我が師は来てくれそうにありません。残念です。

          3. 眼では見えていても、意識から抜け落ちてましたが
            とろいやさんの1月24日3:06 PMの投稿に「1回目」と書いてあるので、2回目を持つことにして暫く議論ルームから距離を置いて観察に徹することにしました。
            とろいやさんが戻られたらまた懲りずに議論に参加させてください。
            端くれさんも私に気を使わせてしまい申し訳ありませんでした。

          4. お待ちしています。

            端くれには師に質問をするだけの能力はありません。
            したとしても反駁する能力がありません。
            でもここには議論してくれる方たちがいます。
            その方たちが食い下がるほど、対話は継続され
            多くの知見が得られます。

            ぜひ想像してください。

            端くれが  師と注射星人さんの対話に
            どれだけの期待をしていたのかを。

            皆様には 傍観@ご協力 を感謝いたします。 端くれ

          5. 注射星人さんに「表現のクセ」を再考して「文章を分かりやすく」してもらいたい、
            それで、いろいろ書き込んでおります。

            「世界をどう認識しているか」は、
            私がずっと考え続けて来たテーマです。
            注射星人さんのこれまでのコメントから推測できる「言いたがっている事」も、多分「それに関する事」だと思いました。
            ですから「話がかみあうようにして、面白くしたい」というわけです。

            「民主主義の日本型と欧米型の違い」
            「言語に表れる思考形式と表現形式の違い」
            「科学と宗教の根底にあるもの」
            これらは、すべて「世界をどう認識しているか」から導き出されます。

            しばらく「各文化圏は、神をどう【考えて】いるのか」を考察しました(ギリシャ篇で躓いて、停滞しています。いずれ再開したいです)が、それもこの根源的な問いから派生したものです。

            また、この問いは、
            主語を「わたしは」「わたしたちは」「ある民族集団は」「人類は」「ある文化圏に属している人たちは」と、いろいろに置けるのですが、その主語の置き方も重要です。
            しかも、日本語だと主語を置かないで「世界をどう認識しているか」という記述が出来ますが、
            英語やその他の言語で出来るかどうかも、興味深い。
            話題は、広げようとすれば、このように「いろいろと」広げられます。

            そういう訳で、しばらくの間「私が、そのテーマについて考えている事」を題材にしながら、
            「表現を分かりやすくするための考え方」についても、触れて行きます。
            泥酔していなければ、今日の夜、第2回。
            井筒俊彦教授の著作から学んで、考えた事を。
            井筒先生の本を読んでいない人にも、分かるように。

          6. 話をしようと思っていたのは、
            「根源的【一】が分節して、世界が立ち現われて来る」という事でした。
            とても難しいこのテーゼについての、私なりの理解を「日常用語で分かるように」述べようと思ったのです。

            いい感じに酔って、寝落ちしてしまいまして、
            「原テクスト」である「意識の形而上学」の読み直しが、中途半端になってしまいました。
            そういうわけで、ちょっとだけ。

            「世界は本質的には【ひとつのもの】である」という感じ方・考え方が、大乗仏教では「起信論」の「真如」という《仮の言い方》で表されます。

            なぜ「仮の言い方」なのかと言うと「本質的にひとつのもの」は名付けられないから、である。
            その「真如」は他の文明圏で別の言い方をされる事がよくある。つまり「世界は本質的に【ひとつのもの】である」というのは人類の「世界観」に共通している。特に東洋の思想において顕著である。

            概ね、そういう意味の事を、井筒教授は仰っている。
            私は、そういう風に読み取りました。

            教授のお話は、こう続きます。
            そして、人間にとって「世界」が成立するのは、「真如」が分節して来るからである。「真如」は本来的に分節指向性を有する。

            この後、それは「阿頼耶識」でなされる、というような、さらに難しい話が続きます。

            この【世界は「本質的にひとつであるもの」が「分節すること」によって、人間の前に立ち現われて来る】というテーゼを、私はひっくり返してみました。
            つまり「本質的にひとつであるものが分節して世界が立ち現われて来る」というのは、
            「人間は、世界を、【部分部分に分ける事】によって、始めて認識し得る」という意味なのだろう、と。

            言い換えると、
            「区別」という理性の働きが「世界を認識する」という事の基礎作業である、と。
            では「区別」という作業を、私たちの理性はどのように実行しているのだろうか。

            どうでしょう、そんなに難しい用語を使わなくても、話せますよね。

            「意識の形而上学」を「わたしは別の意味に読み解いた」という人が有っても、また学会での通説が別の解釈であっても、それは関係有りません。
            哲学は「自分に分かるように考えること」ですので。
            そして「自分に分かるように」というのは「他の人にも分かるように説明できる、というレベル」まで来ないと「本当に分かっている」とは言えない、とも思います。
            逆説的に言えば、それが出来るのなら「その範囲できちんと」理解できている訳です。

            つまり、難解な用語を並べている場合「それは日常的な言い方だと、どういう事ですか」と問われたら、ある程度説明出来なければならない、という事。
            そう言い切れるのが「アマチュアの強み」です。

            とりあえず、今日「2回目」は、ここまで。

      2. >2、「民主主義」と「資本主義」は、異なる分野なので、本来対立関係に有りません。
        それぞれの派生的原理が対立します。
        もっとも「派生的原理」と言っても、それは「本質的要素の拡張」であって「付随的」という意味ではありませんが。
        そこを押さえておきましょう。
        「民主主義⇒人類全体の福祉の充実」
        「資本主義⇒ハゲタカ化による富の独占」

        わー、これって「マルクス主義」とか言いません?

        1. すぐ下で、mottonさんが述べているのが、上手い説明で、「民主主義」「資本主義」どちらも「イズム」ではなくて「人間性の本質の表れ」です。

          言い換えると、
          「みんなで幸せになろう」から「民主主義」が、
          「わたしは幸せになりたい」から「資本主義」が生じます。
          つまり、幸せの対象が「富」となる事によって、
          「富の適正分配を志向するシステム」=民主主義
          「富の独占を指向するシステム」=資本主義
          が生じて、
          「富」は限定的なので、突き詰めると、両者は必然的に対立します。
          対立を放置すると、社会が崩壊して、誰も幸せになれません。
          ですから「前者を最大化するために、後者を抑制する」という目的が生じます。
          この事を述べただけです。

          そのためのシステムが、いろいろ考案されたわけで、マルクス主義もその一つです。
          統治原理としては、成功しませんでした。
          マルクス主義者は後者を潰してしまおうとしましたので。
          マルクス自身が、多分「労働」という事をした経験が無かったのでしょう。それがために思想の全体が「空想的」になって、統治原理としては不適格なものになったのです。
          なのに、後世のマルクス主義者たちは「自分たちの独裁を正当化するための道具」として活用した訳です。

          今でも共産主義に共感している人は、次の点が理解できないのでしょう。
          富の独占への志向性が肯定されるシステムでなければ、富を生み出す力が弱くなるのです。

          1. 「民主主義」も「わたしは幸せになりたい」が原点で、「わたしを幸せにしてくれる仲間」たる「みんな」の存在を発見したことから「みんなと幸せになろう」になりました。(発見というか社会性動物の本能ですが。)

            「わたしは幸せになりたい」を潰そうとしたマルクス主義は「みんな(仲間)」を定義不可能になってしまったのです。
            「わたしは幸せになりたい」から導かれないものは全て不安定なのです。なぜなら、「幸せになりたくない」存在はその定義ゆえに滅びるから。

            他者の「わたしは幸せになりたい」との対立は原理的には解決されるはずなのです。
            他者が「わたしを幸せにしてくれる仲間」である場合、他者にも一定の「幸せ」を確保しなければ、自分も「幸せ」になれなくなってしまいますから。逆に、「みんな」に幸せにしない者は、もはや仲間ではないとみなされ、排除されますから。
            これをシステム化したのが「法」ですね。

            しかし、これには暗黙の仮定があります。
            「わたし」や「みんな」が永続的だという仮定です。これがないと、「わたし」を幸せにすることが(「わたし」や相手の寿命の問題で)時間的にできない「みんな」はもはや「仲間」ではなくなってしまいます。
            この問題は、生物としての本能に基づく「わたし(その子孫を含む)」であった少し前までは致命的ではありませんでしたが。

            さらに、もう一つの暗黙の仮定があります。
            「みんな」に属する各々がほぼ同じ力を持つという仮定です。「仲間」とは相互依存の関係でなければなりません。圧倒的な力を持つ存在は「仲間」にはなれません。
            生物学的な差なら全く問題ありませんが、国家や巨大企業が主体性(意志)を持つと危険な理由です。

            現在は、社会システムにより、これらの問題を抑制しているのですが、上記は生物としては当たり前である暗黙の仮定であるがゆえに逸脱しても意識されず対応されないので、色々と問題が生じています。(個人的には悲観的です。)

        2. そろそろ参加させてください。
          ムズムズしてきました。
          >とろいやさん
          >世界は本質的には【ひとつのもの】である
          それって、最新の科学の超弦理論と同じ考え方のはずです。
          理論的に発見された、宇宙の四つの力を統一するまだ未完成な理論

          >「自分に分かるように」というのは「他の人にも分かるように説明できる、というレベル」まで来ないと「本当に分かっている」とは言えない、とも思います。

          ところが思考の傾向は、個人個人の経験の収斂である「気質」に引っ張られて理解を妨害するんです。
          ある段階まで進むと必ず原因不明な霧のモヤが現れてその先は進む事を妨害するんです。
          その気質の正体は思考の傾向の癖だと考えました。
          その癖を相殺して、直す為に言語の基準を見直す訓練が必要だったのです。
          その成果を手放したくない私の態度が皆さんには「表現の変な癖」と映ってしまわれている状態なんです。
          私自身も皆さんの困惑を困っています。

          1. 理論同士を繋ぐ為のある表現が欠如した状態を補う表現を別の表現から拝借して、理論が自分の中では成立するように言葉が内包している状態を自分が保持している状態に持っていく必要に迫られました。
            かなりの期間、理論と理論を纏めたり分類したりする言葉を他の人に伝わる言葉を直すどころか、自分の理解の文脈に繋ぐ事さえ困難になりました。

            その状態を打破する為に文脈の解釈を自分自身に伝える為のコピーライターになる必要があったんです。

          2. 注射星人さん
            端くれの思惑どおり
            m(_ _)mスマソ
            まさに知りたかったことについてのお話になってきました。
            ((o(´∀`)o))
            修行者の端くれが注射星人さんとの会話を求めた理由は
            ずっと解決できずにいるこの疑問を解決したかったからです。

            日本人として生まれ育った自分は教義を理解できるか。

            すみませんでした。もう邪魔しません。多分無理だけど。

    2. 「日本式民主主義」「民主主義」「資本主義」。
      そもそも、これらは「(自明ではない特定の理想に基づく)主義」なのか?民主制や株式市場などの「システム」なら定義は容易なのですが。

      さて、人間は生物であり、生物は生存本能を持ちます。(持たない集団は滅びるがゆえに必ず持ちます)。
      「民主主義」や「資本主義」のためのシステムも、それ(生存戦略に有利な自己の意思の実現や自己の財産の拡大、すなわち「自由」)のためのものでしかありません。
      # それを「主義」としたのは、それを否定するようなある理想に基づく「主義」の信奉者のプロパガンダに過ぎない。(否定したがゆえに滅びましたが。共産主義のことね。)

      集団の長(おさ)を選んだり、財産を増やすために投資することなどは、古代いや太古から存在するものです。それは上手く行っていました(上手く行くシステムが残ってきたという意味)。
      それなのに、現代の「民主主義」や「資本主義」(という名のシステム)に問題があるとすれば、原因は何か。

      上記には、大きな間違いがあるのです。
      生物の真の本能は、自己の生存ではなく、(自己のDNAを受け継ぐ)子孫の生存です。(持たない集団は滅びるがゆえに必ず持ちます)。
      これがあるから、家族のため国家のために自己の自由を毀損する(命を賭けたり、遠い未来のために投資する)ことができたのです。
      逆に、これがない、自己の「自由」だけに基づく「民主主義」や「資本主義」(という名のシステム)は暴走の可能性を内包します。自分の死後に責任を持たないなら、未来からいくらでも借金できるし、社会の全ての資産を自分の生存中に売り払うことができるわけです。(移民問題にも通じます。移民は子孫がその社会に止まることを前提としない価値観を持つため、未来に責任を持ちません。)

      日本社会はその歴史的な安定性から、自分の死後の世界(子孫の世界)の存在を本能的に確固としています。だから、自己の「自由」の暴走が抑制されてきたのです。システムとしては「家」の存在です。(天皇は「総本家」の長であるがゆえに、もっとも自己の「自由」がない。)

      しかし、本能から離れて、自分の死後の世界が存在すると考えるのは「信仰」でしかないのです。日本人のそれも「信仰」ですが、日本社会ほど安定していない世界では、より明確に「信仰」を必要とするのです。それも、暴走を抑制するために「社会」が生み出したシステムの一つです。
      「日本式」というのは、この部分の違いだけです。

      中華圏がヤバいのは、その「信仰」がないところにあります。
      例えば、「地球温暖化」の是非はおいておいて、それを防止したいという意志は、その「信仰」からきています。中華圏には、その意志そのものがありません。
      こうした社会が滅びることは確定ですが、その過程で巻き添えを喰らいます。(コロナ禍が良い例です。)

      # 「子孫の生存」という生物の本能「だけ」を仮定して、社会を記述したいんですよね。社会の価値観やシステムは、そこからどう導かれるか。例えば、「善悪」は子孫の生存に有利か不利かで定義できる。

      1. >「子孫の生存」という生物の本能「だけ」を仮定して、社会を記述したいんですよね。

        教育者の端くれだったころ、そんな感じの教材を作ったことがあります。
        いじめをなぜ始めるのか。なぜ止めようとするのか。
        それぞれ、楽しいからと苦しいからを仮説として、
        生物の行動の目的が生存と種の保存であることから説明する。
        というものでした。

        1. パート1
          順位付け。

          群れを作る動物の中には順位付けを行うものがある。順位付けは食べる順番を決めるための行動である。
          集団で狩を行うオオカミを例とする。
          群れを構成する各個体を食べる順番が早い者から順にABCDEFとする。
          狩った獲物はAから順に消費されるため後の者は十分な栄養を得られない可能性がある。

          どんな方法で順位を決めればいいだろうか。

          ヒント
          順位付けは捕食行動であるから、「順位の高いものが十分な栄養を得ること」が
          群れの捕食行動に有利である必要がある。

          1. パート2
            快と不快

            行動を大別すると「近づく」と「離れる」の二つである。
            それぞれを+、-とし、行動を+行動、―行動とする。
            十分な刺激を受けると行動が起こる。

            例えば、水中に糖があれば「飲み込む」という行動がおこる
            糖の刺激によって起こった行動は+である。
            行動の決定にともなって感覚が生じている。
            水中にある糖によって生じた感覚は味覚であり、甘みを感じるという。
            「おいしい」「まずい」のように刺激が単純でない味覚もある。
            しかし生じる行動を+と-に分類することはできる。

            +行動を起こしたとき生じる感覚を 快、‐の行動の場合を不快とする。

            いろいろな感覚をカードに書き快と不快に分けてみよう。

            時間があればさらに分類してグループに名前を付けよう。

          2. パート3
            正しい喧嘩といじめの定義。
            1 喧嘩のおきてを決めよう。
              やってはいけないことをカードに書こう。
              グループごとにおきてをきめる。
              順位付け行動の目的は
              群れとしての捕食能力を最大にすること。

              古くからある喧嘩で「やっちゃいかんこと」は、
              順位行動の目的と整合することを確認する。

            2 いじめを理解する。
              いじめの事例をあげどのようなことが行われるか列挙する。

              ほぼ全ての事例によって結果として集団の能力が低下する  ことを確認する。

              このあたりでいろいろ問題が起こります。
              この研究は当然お蔵入りすることが予想できますね。

          3. 最終回
            1 人の順位付けに殴り合いのけんかが使えない理由を考えよう。

               順位を決める方法を決めよう。その理由を説明せよ。

            2 誰かがいじめられていると見ている人が悲しくなるのはなぜか。理由を考えよう。

            3 いじめっ子の定義
                提示 順位が上がらなくても順位付け行動の勝利には快感がともなう。
                いじめっ子は快感のみを目的に、順位が上がらない順位付け行動を行う。

            4 いじめと、いじめににたものを、見分けるには

              このあたりまでの研究が進行し、先行実践もすみ、
               一般化すればいけるかというところで
               とどめが刺されました。そうあれです。
               文科省発表のいじめの定義です。  終了。

          4. 解説してみると
            順位付けは、運命共同体たる群れの能力の最大化(群れの個々の個体にとっては長期的な利益=自身の子孫の利益の最大化)のための合理的な行動。
            上位になれば大きな利益が得られるため、上位になることを「快」と認識することも合理的。
            (群れの中で能力に基づく階級が生まれたよ。)

            ところが、ここで「快」を求めることを目的として上位になろうとする行動をとるようになる個体が出てくる場合がある。いじめはこれだ。
            その行動が、群れの能力を低下させる場合には問題となる。
            (愚民どもがあ~。管理してやるといってはいけない。神になるしかなくなる。)

            そのため、群れはそのような行動を抑制するために「おきて」を持つようになる。順位付けを武力闘争ではなく選挙や試験にするってのも「おきて」の一種だね。
            (「法」が生まれたよ。)
            ここで、「群れの利益→自身の長期的な利益=自身の子孫の利益」を認識できている個体は、自身のために「おきて」を自ら作り守ろうとする。
            (「法の支配」が生まれたよ。「民主主義」も生まれそうだよ。)

            ところが、いじめ(特に学校内におけるいじめ)の場合、集団が運命共同体たる群れではなく、集団の能力が個人の利益に直結しないため「おきて」が生まれない。
            ただし、集団がもっと大規模な上位の集団(社会)の一部である時、いじめは社会の能力を低下させる(因子となる)がゆえに、社会はいじめを撲滅しようとする。
            しかし、子どもたちは社会に属している意識が希薄ゆえ、社会による効果的な干渉が難しい。

            という感じでしょうか。

          5. パート1の答は映像資料。犬に詳しい生徒に解説をお願いします。
            ドックファイトです。
            仕掛けるのは必ず下位の個体です。
            全力で走り、相手の後ろをとり、噛みつき倒します。
            でも出血したり、足をくじくことはまずありません。
            負けたほうは腹を見せ、勝ったほうは攻撃をやめます。
            勝ったほうが去ると負けたほうは立ち上がります。

            余剰の栄養分はほとんどここで使われ、
            繰り返すたびに双方の能力は向上します。
            向上する能力は、走力、方向転換、犬歯のコントロール等
            ほぼすべてが狩に使用されている能力です。

          6. 中2に言い聞かせるように文章化すると、超ウルトラ長文になるので、読み辛いとは思いますが

            近年に民主主義のシステムで大きな問題が頻繁に起きているのは、政策を実行する速度よりも情報が伝わる速度の方が遙かに速くなり、その為に情報を政策よりも先に入手する事で、政策に影響を与える政治工作が政治の実行ポイントに先回りする事が可能になった為に、その時に起きる「タイムロス」が資本化している事。

            コレは端くれさんの最終回の投稿と完全に比例している現象です。

            その状況が情報にアクセス出来る立場だけ(政治家や官僚やその立場に親しい立場にある)が資本(金)になる情報を無限に生み出せるサイクルを招いている。
            つまり、マルクスが嫌悪した資本主義のシステムでは先回りする時間そのものも資本なんです。

            >群れとしての捕食能力を最大にすること。

            ところが捕食の先回りが可能になると、本来の利益の最大化という目的を「棄損できる状況」そのものが資本価値を帯びてしまうんです。
            すると目的と結果が逆転して、結果が目的を利権化するというトロフィー争奪戦によって食い潰していく結果を招いてしまう。
            津田大介のような無能なチンピラが愛知トリエンナーレの権限を得られたのも、この先回りの資本化システムが原因です。間違いなく。

            子供は大人が外見から想像しているよりもずっと狡猾なので、狡猾さがスクールカースト化しており、この先回りの資本化を意識的に操作(監視の常態化や規則のブラックボックス化)などを駆使してなんとかする必要があると思います。

          7. パート2は 喜怒哀楽あたりまではほっとけばできます。
            部分部分に分ける事によって、始めて認識し得るんです
            でもまたひっくりかえして集めてしまいます。
            時間切れまで四苦八苦、愛別離苦、怨憎会苦 蘊蓄おじさん。
            パート3
            喧嘩のおきては、ほぼ昭和の漫画の世界になってて面白かった。
            卑怯な真似、一体多(タイマンじゃない)。武器つかう。勝負がついてもやめない。など

            いじめの事例。
            内容は見事に喧嘩のおきてと反対の性格になります。
            みんな経験者です。授業者の能力の見せ所になります。
            全員がやったことがあるので、その記憶を引き出せれば成功。

            そうです。予想されるのはフラシュバックです。
            ヤバイデショ サスガニ

          8. mottonさま
            ほとんど正解するとは思いましたが。
            これでもう十分指導可能。公民要素まで入れられますね。

            修正するとしたら第二段落で
            「群れの能力は必ず低下する。」くらいでしょうか。
            あきらかな下位との順位付け行動は練習効率がひくく、
            ヒトの場合、いじめに使う行動は群れの能力向上に
            ほぼ寄与しません。そしていじめられた個体の、
            モチベーション低下が深刻です。

            パート3以後は展開を各校の指導方針に合わせてアレンジしていく部分ですから、公民要素に重点を置くとすればこれで十分な構成です。
            自治活動を通じていじめをなくす流れで このあと34段落目の解説入れます。
            4段目は完成品がないので思い出しながらになります。

          9. 注射星人さん

            情報伝達ついては現場は苦労しているでしょう。
            過去は生徒を守る対策をする時間がありました。
            でも今は指導者が情報を得るころには手遅れです。
            情報が生徒間に流れた瞬間に生徒が対応するしかない。

            「タイムロス」が資本化しは無理。

            集団の階層が正しく成立してない。
            集団内の利益の共有も怪しい。
            という感じかな。
            たしかに、この教材は個体・群れ・種という階層で
            目的が共有されないと成立しなくなります。

            確かに子供は狡猾です。
            でも種の保存のために正しく生きることが有効であれば、
            正しいを理解している子は正しく生きます。

            それを大人が提示できないことに問題があります。 

          10. ちょっと自分の立ち位置の理解が自分でもふらついてきているのが判るので、また一時退室して頭を冷やしてきます。

          11. 最終回  
             群れの集合体として学校を理解する。
            1 自分のチームにとっての順位付け行動とは何か。
            委員会や部活動を群れとし、群れの能力に直結する能力の差をつかう。
            練習量の違い、真剣さ、理解力 思いやり。 
            自分のチームにふさわしい能力を基準にすればいい。
            能力を選んだ理由の理解がチームに必要な能力の理解になる。

            2 誰かがいじめられていると見ている人が悲しくなるのはなぜか。
            群れの能力が低下したことで、捕食行動の成功率が低下する。
            それは個体の生存ひいては群れと種の保存の危機となる。

            不快の放置は個体の死と種の滅亡(死滅)につながる。 
            一見すると、個体の危機にさらされるのは下位のDEF。だが、
            個体数が減少すれば群れの能力は低下し、上位の個体にも危機が訪れる。
            上位にいるAが人の群れに必要な能力で順位付けされていれば、
            Aは確実に、危機であることが理解できる個体になっている。

            つまり、リーダーはいじめを見ると不快になる。不快とは怒・哀。
            聡明で優しい女生徒の哀、信頼されるたくましい男子生徒の怒。
            しかも彼らは、自分の感情の正しさを確信することができる。
            周囲は何も言えなくても、リーダーの不快は理解できる。
            だから表向きはいじめた子の味方はできない。

            最後に別の場所に各リーダとトップリーダーを集めます。
            こう言って終了です。君たちはチームだ。○○中をよろしく。
            (継続指導なら3年生を使います)
            学校も群れですね。各チームのAです。大丈夫。問題ない。

            順位の変動がなくても快感を生じる体験は簡単です。
            隣にいる人とじゃんけんをします。
            勝ったら笑います。負けたら泣きます。ウソ泣きでいいです。
            やってるうちに勝つと嬉しくなってきます。
            気持ちいいですよ。これ。意味ないけど。
            アレデス アレ

            さて最後はいじめた子を救わなくてはいけませんね。
            いじめの定義です。

            学会で認証しなくてもいいのです。
            その学校の生徒がみんなそう思えば定義です。
            その定義によっていじめた子を救います。

            いじめは犯罪じゃない。いじめは誰でもやってしまう。
            君もあなたもやったことがある。それがいじめ。
            いじめは楽しい。気持ちいい。ついついやってしまう。
            そういう過去の自分をどう思う。今日からどうしたい。

            もうやらない。いじめてたら止めたい。

            これでやった子を救えます。これからやる子も救えます。
            だってみんなが通る道だから。

            いじめと思い、止めるのは見てる人です。
            見てる人がいじめかどうか決める。そして止める。
            でなければ止められないのです。

            そうです。あの定義と指導とは正反対なんですよ。
            あれだと、いじめた子は救われないんです。

            救われないから隠すしかない。隠されたら見つけられません。
            隠す必要があればいじめた子に協力する子がいるのは当然。
            いじめは長期になり、いじめられる子のダメージは大きくなる。
            そうなると許すのが難しい。悪循環の始まり。

            だから生徒をずっと監視する。先生で無理なら警官を、
            それが無理ならカメラで。そんなことするべきじゃない。
            できませんでした。

          12. mottonさま

            第4部は未完のうえ夜の思考になってしまいました。生物の領域との関係について補足を。
            実はいじめの定義、こうなる予定でした。

            1 犯罪ではない。
            2 グループの正しい活動の延長にいじめがある。
            補足 正しい生徒活動といじめの間にある境界領域では、場面のみで判断できない。

            恐喝、暴行の範疇になるものはもういじめとは呼ばない。その前段階がいじめである。
            犯罪にかかわると巻き込まれる。犯罪を何とかするのは生徒ではない。だから何もせず無条件に報告する。
            いじめになっているかを生徒間で確認できれば、なりそうな段階で行動すれば生徒でも犯罪になる前に防げる。

            いじめとする条件
            いじめ側といじめられ側で人数に関係なく、力関係で上位がいじめ側になる。
            上位者が負けが明らかな勝負を強要したり、勝負の結果以外の不快を強いることがいじめである。

            例えば上級生が下級生に腕立て50回を要求する。50回できれば勝ちという勝負を挑んでいる。そして20回しかできない子は負けが決まってる。1分以内とすれできない子はふえる。容易にいじめが起きる。しっぺを遊びをするとき、ひとりで5人と勝負すれば負け数は最下位になることが明らか。完全にいじめである。あとは応用で判断できる。個々の判断がむずかしい場合はリーダーに判断させる。リーダーが判断するのがむずかしい場合、他の群れのリーダーと協議する。先生に聞いたら負け。境界領域はどのみちグレーゾーン。校内の生徒による共有さえできていれば問題ない。

            いじめた子を許すことの根拠となる事実。
            許すは、群れの中にいる未熟な個体を守る行動。
            オオカミでは未熟な個体のおきて破りには罰則がない。
            群れのおきてを会得できていない間は未熟とみなされる。
            おきての反対の行動がいじめの特徴である。
            よっていじめは未熟な個体に特有な行動となる。
            戦力化されれば群れの捕食能力は向上する。
            だから成長を待つ。我慢する。これが許す。
            生殖可能なまで成長してなお、おきてを守れない場合。
            上位の個体によって制裁が行われる。
            最上位の個体が勝負を挑むのはこの場合のみである。
            だいたい追放という結果になる。

            仮説
            群れの能力向上を目的とする行動は学習によって獲得される。
            少年期前期にはまだ獲得できていない個体が存在する。
            未獲得の個体は、いじめに不快がなく勝利の快感のみ生じる。
            自分でやめることはない。獲得しようとしなければそのまま成人する。

            ダレノ ハナシ シテルノ
            ケッコウ イッパイ イル

          13. 体育会系部活動におけるそういうのは、あまり「いじめ」という認識が無かったですね。

            上級生の単なる快感のためでもあり「いじめ」ではあるるのですが、戦力になりそうにない個体の排除という面もあります。(「部」という群れがその群れだけで閉じていないから排除が許される。)
            ただ、多くの場合は排除になりません。絶対無理だと思っていても出来るように(戦力になるように)なりますしね。
            戦力になるようになれば、特に上級生より上位になれば扱いが変わります。完全に対立すると下位が排除されるので。
            ここまで、ひっくるめて暗黙の「おきて」がある感じです。

            私は、中2の初夏から入部したので、同級生からは格下に見られてパシリ扱いされていました。ところが少しだけ才能があったらしく、同級のキャプテンと中3の夏に互角の勝負ができるようになりました。その時は負けたのですが、完全に意識が変わりました。初めて勝ったことは覚えていないのですが、気がつくと同級生や一つ上の上級生にほとんど勝てるようになっていました。(中高一貫だった)。こうなると周囲の意識も変わります。

            部活動だけではなく、勉強でもお笑い系でもいいんですが、周囲に自分の有益さを理解させることができればいじめられなくなります。(私は、小学校の時は勉強だった。)お笑い系だとそれがいじめになっているような可哀想なパターンもありますが。

            逆に、有益ではないから排除してよいと認識された子はいじめられます。これ、群れ全体でその認識になっている時には群れの論理では止まりません。

        2. いじめの定義は、この教材の定義、一般的な定義、いじめる側の定義、いじめられる側の定義、の順で範囲が狭くなります。

          この実践では、生徒のいじめの定義は一般的にいじめではないものも、いじめとする必要があります。正しくはいじめの萌芽かもしれません。そのくらいいいじゃんと反論できるくらいが適切になります。その方が対話でリーダーが強化され、いじめた子のダメージも少なくて済みます。
          ホウガホウガ 
          この教材は、生徒による相互監視、生徒による判定、生徒の行動で、生徒がいじめの発生を防ぎます。だからいじめが起こる前に行動する必要があります。定義が一般的なものだと、行動はいじめの発生後です。いじめが始まれば、いじめる側といじめられる側の両者が隠蔽を始めます。周囲の生徒は両者に協力します。この状態では上位のメンバーによる制御ができません。
          またこの指導では階層を学校まであげなければ指導者は生徒に関与できません。指導者が発見する頃にはいじめられた子のダメージが大きく、いじめた子を救うのも困難になります。

          群れの捕食能力の向上につながらない個体が排除されるのは普通に観察できる事実です。よって排除は推奨します。
          適正でない部活に所属してしまう個体は必ずいます。これは所属する群れだけの不快ではないです。その個体を待っている部活や委員会があります。補習の場合もあります。これは上位階層の群れから見れば能力の低下なのです。だから速やかに排除し別の群れで吸収します。いじめ等が原因で活躍できない状態にして放り出せば部長会で部長がつるされます。自分も体育会系なのですが、どうにか一流の端くれになれたのは中高のころとはまったく別の競技です。

          1. mottonさん

            2021年1月27日 4:46 PM
            このレスの事象、当時の自分、軽視してますね。残念w
            当時これみたら別の教材として完成したかも。
            作れそうな気がします。文科省回避できるし。でも対象年齢が上がります。いじめの発生を止めるのは難しいかも。

            あれはリーダー側の躊躇の原因になります。二つの不快。数ある葛藤の中でも、行動が難しいですね。

            上位階層の群れの利益のために下位階層の群れでは排除されるで、処理しましたが、本当はそんなに単純じゃない。転部する生徒と邪魔に感じるメンバーはある程度救えてもリーダー層を救えていない。
            トップの子たちは気づいていたのかもしれません。疑問をもっても、自分で判断し処理していたんでしょう。

          2. 部活動は、部という群れがその群れだけで閉じておらず、学校という群れの一部であり、他の部への移動という形で救済されるから排除が許される(排除により多くの人に利益がある)、と思います。

            しかし、学校(生徒の集団)という群れからの排除につながるいじめはどうしましょう。県下の上澄みを集めたような母校ですらありましたから。

            これは「救済されなければならない(救済することが群れの利益になる)」とする意志を持つ群れまで拡大しないとどうしようもないと思います。学校(教師を含む集団)ですら私立だと排除を許しかねませんから、文科省が出張ってくるのは正しいのかもしれません。

          3. 反論も補足も必要ないです。その通りです。

            研究の目的は中学校での指導です。その外側は範疇ではありません。端くれの手には余る。
            端くれは文科省の行動を否定しているわけではありません。定義が発表されて内容を知った時、それがなぜ必要なのかを理解できない者はいませんでした。でも、「いじめられたと思ったらそれがいじめ」。ここまでやるとは同僚のだれも予想できませんでした。
            だから没になった。ww
            これ、生徒のための定義じゃないですから。

          4. 「いじめられたと思ったらそれがいじめ」
            この定義はOKでも、その定義の「いじめ」が「群れに害をなすいじめ(おきて破りのいじめ)」がどうかは別ですよね。

            上記の定義と「いじめは悪い(いじめは犯罪である)」が組み合わさると「被害を受けたと思ったら犯罪」が成立してしまいますからね。

            ただ「被害を受けたと思ったら(救済が期待できるところに)訴える」という行動がまだ十分にとれない中学生には、まず「被害を受けた。救済されたい」と自覚して声を上げられるようにすることが必要なのかもしれません。

            それを第三者(まずは学校の先生や他の生徒)が短絡的に「いじめは悪い(いじめは犯罪である)」と考えずに、解決する必要があるのでしょう。
            (端くれさんの研究は、ここの理論付けになるのでしょう。)

          5. 端くれは端くれです。必要な期間、必要な部分にのみかかわっただけです。想定していた定義と実際に発表される定義を見比べた瞬間、端くれは不要に。w
            無理ポ…と感じた瞬間撤退するの科学者の習性です。W

            かかわった人数を考えるとそろそろやばい。
            匿名を捨てたのは軽率だったかも。w
            これだから直感型は恐ろしい。

          6. 書き忘れていました。補足しておきます。

            この教材は「いじめられている子の行動」には期待しません。

            いじめの範囲はいじめられている子が一番小さくなります。早期解決できる現場の例では、指導が終了する時期でも、自分がいじめられたと認識できない場合があります。そして彼らが選択する行動はいじめがなくなる方向ではなく、解決可能な選択をするころには行動するエネルギーが尽きてしまいます。

          7. あー、ちょっとかみ合っていない気がしたのですが、原因が分かりました。
            収束して定常解が得られるものと、発散して解が得られないものの違いです。物理や数学だと、これは最初に切り分けるので、私はそういう癖がついているようです。
            (経済学や社会学では気にしないのが気持ち悪い。)

            私は内部で最適化される(群れ内部の論理で解決する)ものは大きな問題ではないというスタンスなのです。解決までの時間の問題はありますが、基本的には外部からの干渉なしで自然に解決します。

            大きな問題になるのは、クラス全体で「あいつ、いらね」となっている場合(いじめだと認識していても、いじめられている当人を除く全員がいじめを「不快」だと感じない場合)。先生も消極的に加担していると止まりません。

            野生動物の群れでは、完全に役立たずになった個体やおきてを守れない個体は群れの論理で追放されます。
            現在の人間社会では重犯罪者でなければ許されますが、許される論理はかなり弱いものです。学校の場合、その論理がさらに弱いので、止まりません。
            これを止める(内部の論理で止まるようにする)には、どこまで系(群れ)を拡大すればいいのかに興味があるのです。
            (「人権」を刷り込んで思考停止で条件反射させるのは、どこかに歪みが出てしまうと思うので、違うと思うんですよね。)

          8. 先生も加担していると止まりません
            あっちの定義の目的w
            この実践では指導者側の認識も変化しますよ。

            野球部部長Aと、部長会会長Aの感覚は違います。違いを会得できるのは部長Aが部長会の一員である会長Aになった時です。習得行動には経験が必要で、生徒会書記Cになれば不快を感じる範囲はさらに広がる。ある程度経験すれば経験しなくても上位の階層を意識するだけで拡張できるようになります。でも習得行動には個体差が生じ、時間の経過で差は開きます。習得の時期も限定的なのかもしれない。初期の経験の差によって成人するころには感覚の差は決定的になるのです。
            セイトハ マニアウケド センセイハ

            以下は私見ですが。
            「一般に、全ての個人を向上の要素とできるまで群れを拡張すると、個人が群れと認識できる範囲を逸脱する。」
            でも
            「すべての排除を不快と感じるまで拡張しうる存在はある。」
            「いらしやった」かもしれません。

            ワイニ ソンナン ムリヤロ

          9. 中等教育の前期と後期では群れのもつ性格が違います。そして後期は細分化してます。許容範囲は狭い。当然排除が必要になります。

            >収束できるのはどんな群れか
            排除する側の不快を発生させるのは、集団に有利な能力の排除です。言い換えれば、上位階層の群れを意識し、対象が持つ有利な能力の成長可能性を認識できる経験と能力。

            対象を注射星人さんにした場合、端くれには可能です。対象が○○さんで同じことができるのかといわれると全く自信がない。
            でもおそらくできる人はいる。つまり、階層そのものより、群れの中でそれができる人の割合とその影響力が重要な気がします。 

            すみません、もう推測にすぎません。あの群れから排除されてだいぶ経過してます。

          10. 「教育現場における研究は科学たりうるか」
            経済学や社会学では気にしないのが気持ち悪い。に関連して。

            あの資料の研究中、研究者の端くれに生じた感覚も不快でした。

            実践の結果、実践中にいじめはほぼ解消し、実験校が上に報告したいじめの件数は0です。
            校内のいじめの件数は膨大な数になったましたけどね。

            実践研究にかかわった人の大部分は多分快感があったでしょう。端くれの苦痛を理解してくれたのは他に2人だけ。現場の理科と技術の先生でした。

            実践には報告が必要で、この実践は効果があるという報告をしました。でも端くれにはこの実践に効果があったことを確かめるすべがない。苦痛は研究参加を後悔する程度、でした。

      2. いじめの場合はパート1と2の両方が重要なエッセンスとして螺旋のように絡みながら作用していると思います。
        まず最初に、クラスという単位の群れの中で順位付けが行われる。
        しかしクラスという集団は自然の群れと違って、個々人で生存戦略が異なる集団。
        資本主義の系では全てのエレメント(要素)が戦略として採用される。
        卑屈さも生存戦略として採用されるし、卑劣さも冷血さも残忍さも資本として許容される。
        すると、そういう、それぞれが武器の異なる集団の中では最強(ボス猿)の定義が曖昧になり、勝った者が必然性の作用により「正しい」という価値観が生まれる。
        この状況は例えるなら価値観のバトルロワイアルですよね。
        このバトルのルールはひとつだけ。
        クラスという単語を運営しているスポンサーの意向に忖度すると同時に、ボスまたは身の安全を目指すという目的も同時に果たすこと。
        結果的に個々人の責任の回避能力者が最強の座を得られる金網のリングを想像能力によって作る事になり、クラスの中での最大与党になるてわあろう身の安全確保派にとっては起きている事に対して無関係を装おうことが最強の武器という認識を生みますよね。
        しかし、知的生命体の群れという集団のクラスという期間が限定された強制生活という系の中でのコミニケーション手段は五感だけではないのです。
        ちょっとした仕草の日々の変化、態度の変質、グループの変化、身に付けているモノの優劣。それらを地形と見做して行動する事も資本(使用が認可された武器)として認定される。
        すると変化の把握こそがコミニケーション手段になり、サイレントマジョリティーの沈黙の傾向がリングであり、傾向に沿う事がルールという状態になる。
        「いじめ」という状態は沈黙の傾向が異物排除の傾向をおびている状態を掌握する事が勝利条件になっている状態でしょう。
        つまり、いじめを行う主体といじめられる主体の関係が原因ではなく、サイレントマジョリティーが帯びている傾向が主犯なのだと解釈します。

        1. まだパート3があります。
          しばらくお待ちくださいね。

          ちなみに中二の2学期対象です。三年生の引退に伴い
          対象生徒にとっては各生徒集団の活動の中心になる時期です。
          理科の行動に関する仕組み
          特別活動の生徒会、部活動等
          一部道徳的内容を含みます。

          この手のサイトに見られるマウンティングに関連して
          マウンティングを見るのが不快である理由に迫ります。

        2. 注射星人さんが私のコメントに来るときはできるだけ私のほうに合わせてくださいね。
          前提条件は 
          「生徒はいじめが嫌いで止めたいと思っている」
          もう一つは 
          「初期には生徒だけで止めることかが可能である。」
          最後に
          「いじめた子を守るためにいじめを隠そうとする。」

          仮説1 
          生徒はいじめが始まった時にそれがいじめであるかを判断できない
          仮説2
          止める側がいじめている側の論理を明確に否定できない。

          つまり、知識を共有できれば止められるという仮説になっています。

          だれもがいじめを始めてしまう可能性があること。
          いじめといじめに似たものをはっきり区別すること。
          いじめを止めることがはとてもきちのいいということ。
          いじめていた子もいずれいじめを止める側になれること。

          これらの事柄を生徒間で共通理解すれば
          いじめが起こった瞬間に生徒が止めるられる。

          そのためには中二の知識で説明できる内容であり
          中二の生徒が理解できる内容でなければなりません。

      3. こういう学習要項の導入案はどうでしょう。
        >子どもたちは社会に属している意識が希薄ゆえ、社会による効果的な干渉が難しい。
        >大人が(群れの正しさを)提示できないことに問題があります。 

        学生というグレーゾーンなポジショニングに問題点が集中していますよね。
        このグレーゾーンの意識に違う価値観でショックを与えれば、意識のポジションが子孫の生存率の側へ戻ってくるのではないでしょうか。
        具体的には牛の屠殺や鶏の締めを見学や体験させるのが効果的かなと思います。

        必ず安全に移動できる範囲内に養鶏場や牧場がある訳ではありませんが、学校で鶏を飼って授業として締め、血抜き、解体を行う事は可能かなと思います。
        アレはイキった不良でさえも心が折れます。
        特に牛は死を悟った時に人間の眼になりますから。

        1. 早速のお気遣いありがとうございます。

          それは割とよくあった教材ですよ。
          ウサギや鶏は校内でやれます。そして効果も抜群でした。

          でもここ10年くらいでほぼ消えました。
          指導者のテクニック次第で数回は可能です。
          でも子供がどんな反応して、それを家で話すとどうなるか。
          回数を重ねればいつかはアレが登場します。
          それで管理者がどう受け取り、その後何をするか。

          あと
          ウシだけじゃなく大型草食動物はみなあの目になります。

          1. >回数を重ねればいつかはアレが登場します。

            その「アレ」の正体と本質は我々がこれまで重ねてきた議論を空虚にしていたものの正体と同じものだと思います。

            それは「正解」が実在しているという個々人の中にある確信です。
            この世界に「正解」は存在しないと思います。

            mottonさんの「納得しないのではなく、技が弱いのだ」もヲチャーさんの「敵意がある人」という直感も、端くれさんの「知りたい」の本質も、注射星人の「なぜ理解できない」も全て「正解」の実在を直感しているからであって
            しかし「正解」が存在しない事は議論するまでもなく自明ですね
            中国の文化大革命も、ロシア革命も、ポルポトも、大東亜戦争も、成田闘争も全てが自分が「正解」という誤認がもたらした人災だった事は明白ですから。
            この誤解こそがアレを生み出して、カント理論の「想像」「抽象」「現実」を「妄想」「利益」「事実」の循環に変換していたものの根源なのだと考えます。

          2. 論理性のロジックを操作すると、人間が頭で思い付くものはすべて実現する。思い付かないものはすべて実現しないというテーゼに辿り着くきます。
            論拠は人間は頭の中にある材料を操作する事でしか、現実に近付くことは不可能というテーゼが論理的に成立するから。
            そこから我々は成立したものと解明されたものとの混同が発生する。
            そこを乗り越えると今度は

            自殺と尊厳死のジレンマ
            論理武装と思考的思考のパラダイム
            思考過程と思考言語のジレンマ
            冗談と本気の境界線のジレンマ
            が発生して、それらに立ち向かおうと頑張ると
            「何万年の人類の歴史上の偉人と自分との比較のジレンマ」に陥り、ほとんどの人が諦めに捕まる。
            その結論から「注射星人は愚かなバカか頭のおかしなアホ」という結論以外の回答へは辿り着けない。それは凄く理解できます。私が同じ立場なら必ずそうなる。
            しかし、そこにもロジックの大きな間違いが存在している。
            何万年の人類の歴史との比較が過ち。
            実際には情報通信という第二の産業革命による大智(集合知)のベースが整理されてから数年しか経過していない。
            人類史上と自分の価値との比較ではなく、過去数年か数ヶ月の経過と自分との気付きの比較が正しい。

          3. 注射星人さん
            「○○にとっての正解」はあると思います。
            確信にまでは至りませんが。
            この完成できなかった教材に関連して話します。

            ある部活の正解と別の部活の正解が、
            完全に同じものではないのは確かです。
            でも共通の部分もある。
            個々の生徒、部活。各中学校、群れは大きくなる。
            名前はいろいろだけど、部活の上位にある部長会。
            園芸委員会の上位の中央委員会。さらに生徒会。
            それらは明確な階層構造になってます。
            各階層の群れごとにそれぞれの正解がありますよね。
            階層が上がれば当然共通な部分は少なくなっていく。
            各中学校。中学校、中等教育 教育。
            アレは、すごく小さくなっている正解に
            自分の持つ巨大な正解を持ち込んでくる。

            アレに対応するリーダーAは小さな正解を管理します。
            自分の群れの共通の正解でない、でも、
            下位の群れの一つがとても大切にしたい
            そんな「正しい」が、否定される。
            否定するしか自分の群れを守れないから。

            正しいを提示しても正しいは維持されない。
            だから子供たちは正しいを正しく理解できない。
            やがて彼らの群れは正しいを共有できなくなる。
            それは
            かれらが作った正しいを守ってやれない大人のせい。
            そう考えたのです。そして
            彼らは次々におとなになり、日本の社会を作っている。

          4. それでは日9:03 AMの投稿から導き出させる結論は「正解は立場の数だけ無数に成立する」ですよね。韓国人にとっての正解も、日本人にとっての正解も、コロナウイルスにとっての正解も、習近平のとっての正解も、カマラ・ハリスにとっての正解も成立する。

            「彼等にとっての正しいを守りたい」今度は私のターンになってしまいましたが、それを世間ではイデオロギーと呼んでいます。
            社会的には偏向した態度なのです。
            同じ何かの「立場に立つ」という態度でも個人の立場の尊重はフェチズムであり、多数派の立場の尊重はイデオロギーです。

            話は変わりますが、幼女趣向を帯びた性的な趣向は「ロリコン」と呼称されますよね。
            なぜロリータフェチズムでははないのでしょう。
            定義を名称化するなら絶対にロリータコンプレックスは変なのです。
            何を根拠にして幼女や少女に性的趣向を感じる態度が美少女劣等感なのでしょう。
            社会では命名した側の態度が名称に付着しているからですよね。

            身近な例だと「ネトウヨ」はなぜネット右翼なんでしょう。
            私はネトウヨという自覚がありますが、右翼だという自覚は持ち合わせません。
            桜井誠に「貴方は右翼ですか」と質問しても、「自分は普通だ。むしろ日本が変で自分が普通だ」と答えると思います。
            ホモ・サピエンス(かしこきもの)という名称も全く本質を表せてない。
            賢いなら結果的に自分達に損になる行動を選択するのは辻褄が合わない。
            「自分達にとっての賢さだけを大切にするもの」なら辻褄があいます。

            このように史上初の大脳主導生物である人間の脳の態度は名称に執着にするんです。
            それが正解とは全く無関係である事が完全に証明されてもです。
            それは人間が間違いなく動物だから。
            動物は対象と戯れる事でしか原因と結果を理解できない。
            人間はホモ・ルーデンス(遊ぶもの)という定義が最もふさわしいと考えます。

          5. >この世界に「正解」は存在しないと思います。
            >しかし「正解」が存在しない事は議論するまでもなく自明ですね

            『「正解」が存在しない事が自明』という「正解」。矛盾だなー。

            理解されているのかもしれませんが、きちんと分けないとダメです。

            まず、正しい論理は存在します。厳密には公理だが真理でよい。これを認めないとあらゆる会話が無意味・無価値になるので。(技が弱い=厳密に正しい論理になっていない、です。)

            次に、ある仮定を公理とする前提の元で、正しい論理を用いた時に正しい答えは存在します。
            一般的な数学(という前提の元)では、1+1 の正しい答えは 2 です。1+1=2 を公理として正しい論理を用いて一般的な数学が構築されていると言ってもいいが。
            そうした正しい答えの集積が理論や法則です。その正しさは論理の正しさのみが担保します。

            ここでいう「仮定」はあらゆるものが許されます。我々の世界に存在しえないものでも構いません。
            一方で人間の知覚の限界以上のものは無いといってもそれはそれで十分です。会話の目的が我々の世界の理解である以上、それで十分です。

            ここまでは認めないと会話が無意味・無価値になります。

            最後に、上でいう「仮定」が我々の世界に適用できるという「仮説」があります。
            「正解」が存在しないのは、この「仮説」です。
            「仮定」に基づくありとあらゆる理論や法則が我々の世界に厳密に適用できることは証明できません。我々の世界に適用して矛盾が生じない(矛盾を知覚できない)ことを傍証として便宜的に使用しているだけです。

            そして、ある特定の「仮定」が我々の世界に完全に適用できるという「仮説」を真理(すなわち「正解」)だと傲慢にも誤解して、我々の世界に無制限に適用した結果が人災を引き起こします。

            「仮定」が間違いだったことだけが問題なのではありません。
            「我々の世界に適用して矛盾が生じないことを傍証として」というプロセスをすっ飛ばしたことが問題なのです。
            科学が再現性を重視するのは、このプロセスを重視するからです。重視するのが保守主義であり、すっ飛ばしがちなのが理想主義とも言えます。プロセスの存在を認めなくなると信仰でしょう。

            科学者は、神の存在を厳密には否定しません。「神が存在しない」という「仮定」の元で構築された現代科学と我々の世界が矛盾しないことから、「神が存在しない」という「仮説」を我々の世界に適用しても「実用上」問題ないとしているだけです。
            (現代科学の理論や法則に宿る「美しさ」や物理定数に神の存在を見る科学者も多いと思います。)

          6. mottonさん

            正しいが存在するなら結果の不公平も正しいにカウントされなくては道理が通りません。
            その通りだとするなら今度は宗教と科学は証明の客観性の導入により別定義という態度も宗教的という道理が通じると考えます。

            >「仮定」に基づくありとあらゆる理論や法則が我々の世界に厳密に適用できることは証明できません。

            それでは数学も証明されない難解な定理が存在している以上は仮説ではないですか。
            その数学を導入している科学を信頼している我々の社会も仮りの社会ではないですか。

          7. ありがとうございます。

            ほぼ私の指向と能力にあう表現に変わっていますね。表現を相手に合わせることの困難は、この事業にかかわったときに会得しました。
            コクフク デキマセン ケド

            ココは
            motton
            2021年1月25日 2:36 PM

            のコメに対する端くれのレスの下です。
            内容が離れていくことが予測できるので移動しましょう。

            二人の対話のボトルネックは
            端くれが注射星人さんのテキストを理解することです。
            申し訳ないのですが私のコメから始めていただけますか。
            注射星人さんが表現を私に合わせる能力のほうが
            端くれが注射星人さんのテキストを理解する能力より高いので。

            よろしければ端くれが対話する目的と
            今回の話題について準備します。
            お待ちください。

          8. さて「正解」とは何か、というのがテーマになっていますので、私見を。

            世界認識でも論理でも価値観でも、何でもそうですが。

            「階梯」と「確率」という視点を導入してみませんか。

            この「階梯」に応じて、そして「確率的に」、「正しさ」が成立するのだと、私は考えております。

            「今、論じているテーマは、事象として、どういうレベルに有るのか」+「そのテーマが論じられるべき事象であるのは、どういうレベルの存在者にとってなのか」+「当事者たる存在者にとって、その事象は、どのぐらい正しいのか」

            難しい言い方になってしまいましたが、心を読み取ってください。

          9. 「正解」とは「正しい解」であるので「問い」の定義が必要です。
            「問い」の定義から、その「問い」に対する「正しさ」の評価基準が定義できれば、多くの場合は最適化の問題です。

            例えば、「日本人にとっての正解」は、おそらく以下のようなものです。
            「多くの日本人にとって有益な手段は何か」という「問い」に対して、何らかの基準で定義した「有益」が最大化するような手段が「正解」。

            「問い」や「正しさ」の評価基準を曖昧にして、自分勝手な「正解」だけ押し付けると、ろくでもないことになるだけです。

            とろいやさんのコメントにある「階梯」は「問い」の定義、「確率」は評価基準の定義に関わるものだと思います。

        2. 注射星人さん
          mottonさんがいらっしゃいましたのでお続けください。
          端くれは移動します。
          後でいいです。というかすぐできないかも。

          1. >①厳密には公理だが真理でよい。
            >②これを認めないとあらゆる会話が無意味・無価値になる

            ①は社会的態度は曖昧を許容するという定義
            ②は社会的態度はコミニケーションの都合に合わせるという定義

            すると全てはコミニケーションを支点として他は全て作用点である事が正解であるという定義が成立しますよね。
            それはコミニケーションに対する宗教ではなくてですか。

          2. 注射星人さん

            「定義」の使い方がおかしいので、言い換え。
            (とろいやさん、採点よろしく)

            >①は社会的態度は曖昧を許容するという「仮定から導かれる定理」
            >②は社会的態度はコミニケーションの都合に合わせるという「仮定から導かれる定理」
            >すると全てはコミニケーションを支点として他は全て作用点である事が正解であるという「仮説の証明」が成立しますよね。

            この言い換えが正しいなら、論理の存在はコミュニケーションの存在が前提と言いたいのかなと思いますが、逆です。コミュニケーションを存在させるために論理の存在が前提になるのです。
            「認識する者が存在しないなら対象物も存在しない」というのは哲学としてはありでしょうが。

          3. 「社会的態度は……である、という定義」を、分かるように言い換えてみます。

            その前に「定義」という語の使用法を修正しましょう。
            「定義」とは「語句」の意味を厳密化する、という事です。
            「文」の意味を厳密化する場合には、使いません。

            ですから「一般人にも分かる言い方」にするのなら、
            「(mottonさんの述べた)①は【社会的態度は曖昧を許容するという定義】」という文は、
            『①は、「【曖昧性を許容する】のが【社会的態度、すなわち社会とのコミュニケーションを重視する態度】である」というテーゼの提示なのですね』
            とでも、言い換えられます。

            ②も似たような操作が可能ですね。それで「コミュニケーション」が論点の主要部になります。
            『②は「【コミュニケーションの成立を、意味の厳格性よりも優先する態度】が【社会的態度】である」というテーゼの提示…』

            結局、
            『mottonさんの説明を解釈すると、「曖昧性を許容してコミュニケーションの成立を優先する事によって、あらゆる会話が成立している」というテーゼの肯定になりますが、それはコミュニケーションへの【宗教的な信念】とは違うのですか』という疑問文になります。

            ※「【本来、語句の厳密化された意味を表す用語である】定義」を濫用しないで「文意」を指すときは「テーゼ」を使う方が分かりやすいのです。

            で、疑問にお答えすると『コミュニケーションが成立しないと「論理」が成立しない』のではなくて、
            『コミュニケーションが成立するためには、まず「個々の論理体系」の共有が必要』なのです。
            そのための原始的コミュニケーションにおいては、個々の論理体系の厳密性に拘ると、情報交換そのものが出来ません。ゆえに、ある程度「曖昧性を許容する」のが必要。

            別のコメントで「階梯」という事を言いましたが、
            「情報交換と論理体系の厳密化」を、交互に行なって、コミュニケーションの精度と共有された論理体系の厳密性の精度を上げて「階梯」を上げて行くのです。

            ここでテーマにしているのは、
            「正しさの厳密性」そのもの、ではありません。
            「正しさの厳密性は、段階的に向上させる事しかできない」という事です。
            そして、その「向上のためのツールの一つ」がコミュニケーション、という事。
            「思考は、自分の中の別の自分との内的コミュニケーションである」という発想に立てば、唯一のツールです。

          4. >正しさの厳密性は、段階的に向上させる事しかできない

            では、その段階がバイアスを帯びていたら向上に角度が付くのではありませんか。
            具体的には朝日新聞的な角度とか読売新聞的な角度が。
            その状態は科学とは別のものだと考えます。
            傾向または態度そのものだと考えます。

          5. 注射星人さんへ
            おっしゃる通り、
            「段階がバイアスを帯びていれば、向上には角度が」付きます。

            けれども「コミュニケーションによって、論理体系を共有して、その段階を向上させる」というのは「バイアスを均して、平坦にする事」です。

            朝日論法がバイアスの塊なのは「コミュニケーション」を拒否しているからです。

            ※「傾向」は、その使い方で良いですが、
            「態度」をその意味で使うのは、違和感が有りますよ。

          6. とろいやさんの7日 3:01 PMのコメントを解釈すると
            >個々の論理体系」の共有が必要
            この部分が主張の肝になっていると思います。
            そのコメントが示す内容は全てが正しさのコンテストによってポジションを得られる事を宣言されている状態だと主張しておられる。
            基本的に全てが正しいという過程から始まるという状態は、同時に全てが正しくないという状態も内包しているはず。全てが正しいが故に。

            「正しさ」は正しさのコンテストによって決定されるのであって、それを「個々の論理体系」の共有によってと表現されているのですよね。
            すると立場同士の相殺によって人口の多い傾向の系が(宗教や性癖や気性)が勝つ事になる。
            すると、子孫の生存率を上げる事と自己の快楽を追求する事の是非は系が持つ傾向が決める事になるのではないですか。
            それは正しいを否定しているのではないですか。コレは正しさが存在している状態ではなく、最大多数の正しい傾向が正しくない傾向を包含して保護している状態。

            もしも、正しくない傾向が正しい傾向を包含している状態ならば、その系は正しくない事が正しいになってしまうではないですか。
            韓国みたいに。

          7. おっと、コピペミスしてしまいました。
            7日のとろいやさんのコメントではなく、27日のコメントです。

            もう一回表現を変えて投稿しますね。

            階梯とはコンクール又はコンテストの言い換えですよね。
            その上で
            >個々の論理体系」の共有が必要
            ①個々の論理体系
            コレは系が内包している情動を開陳して政治観を同じ理論で語れるように共有している状態

            その方法は同じ体験の共有か、どちらかの系が政治的都合を強いられて妥協している状態。

            ソレは条件を両方が折半して両方が妥協しているか、片方の「正しさ」の系が服従している状態ですよね。
            完全な納得もまた存在しないはずですから。

            論理体系の共有は「力による解決」でしか成立しないはずですので。
            その力は共有不可能なので「力による解決」しか手段が存在しないですよね。

            韓国は情緒法によって、「共有可能である」という建前を作っているだけですので。
            その方法は情緒のコンテスト化であり情緒は立場の数だけ存在しているので、この方法では平等も対等も成立しないですよね。

            個々の論理体系の共有は不可能なはずなんです。
            個々が独立した系である以上は。

          8. 「正解は存在しない解決だけが存在している」
            もう一度テーマをここに絞って理由の説明を試みますね。
            正解という状態
            違和感があろうと、こういう表現でしか正解の特性を分解できませんので許容してください。

            正解とは情動によって揺れ動いているそれぞれの系の主張を止場している状態にして対等化を図っている状態
            その方法はそれぞれの主張を足して2で割る方法以外は存在しないはずです。
            「主張」は状況の変化に合わせて、価値(同情やシンパシーの数の変化)や機会(説得するチャンス)が変動して主体の中では常に揺れ動いている状態ですので
            「正解」は解決によって始めて「正解だった」と過去形で定義されるものなのです。
            ですから正解は解決の言い換えであるという定義が成立するはずなのです。

          9. >とろいやさん<
            私は自分の内観に真実を言語化する訓練によって、世界のあり様を自分の中に記述する方法を聞き腕の矯正の様にして手に入れましたが、私のコミュ障によってそれを皆さんに伝える能力までは入手できておりません。
            私が初代ウルトラマンの第37話「小さな英雄」に登場する友好珍獣ピグモンの本能のように世界を自分に対してのみ記述可能な能力に目覚めたのは1月9日以降のことです。

            ですからまだそれを皆さんに伝えるコミニケーションが不細工なままなのです。
            不快な気分にさせて申し訳ない気持ちはあります。しかし、私にとって自明な事が世界を自分に対して記述する能力の私のコミニケーション能力の不細工さによって皆さんには理解できない。

            そのキーパーソンになれる方は今はどうやら世界で「とろいやさん」しか存在しないようなのです。
            この能力の本質は知性や賢さではないようなのです。

            「とろいやさん」私の異質さに背を向けないでくださいね。お願いです。とろいやさんが去られると、私がコミニケーション可能な方は私の視点からは世界で端くれさんひとりしか残りません。

            このままでは世界は確実に瓦解します。崖っ淵なのです。私の視点からはこの危機的状況は明白なのです。その視点だけはどうやら皆さんとも共有できているとこれまでの対立を通じて確信しました。この世界の危険を世界へ伝えて、世界が帯びている傾向の潮目に大智によって逆転を起こさせる私の腹案は、私が知る限り最も理知的な方が集まる傾向を帯びている個人ブログ(←ココ重要:まだアレな奴らの手が伸びていない可能性が高い)であるシンシアリーのブログの議論エントリーを利用して認知の浸透を倍々ゲームのように広げていく方法よりも圧倒的に敷居も失敗するリスクも高いのです。

          10. なぜ注射星人さんがとろいやさんがキーパーソンになれると思うのか。

            とろいやさんが自身の内部に「注射星人さんのコメントを元に構築した注射星人さんの仮想人格」を作っているからです。その仮想人格との対話で予習復習しているので理解(翻訳)できるのです。もちろん、完璧ではないので新しいコメントを読んで仮想人格を検証修正しています。
            こうした仮想人格を多く持っていると多角的に世界を見ることできます。自らの人格とディベートさせることで自らの主張の論理を強固にすることもできます。

            高いコミュニケーション能力の持ち主は、おそらくこれをごく自然に無意識下で高精度に行っています。
            しかし、そうでない者は訓練して意識してやらないといけません。注射星人さんとの対話はその訓練の一つでもあるんです。

            注射星人さんも他人に伝えたいなら同じことをするべきです。
            端くれさんが「中学生くらいを相手にしているつもりで」と、提案したのを思い出してください。まずは、中学生の仮想人格を作ってみましょう。
            実在の他者の仮想人格を作るなら、ある単語をなぜ使用したかまで考慮する時があります。なので、話が飛んで色々な単語が出てくると大変なのです。(例えば、ピグモンが出てくると、注射星人さんの仮想人格にピグモンのデータを追加しないといけないわけ。)
            そういう意味でも、「中学生くらいを相手にしているつもりで」単語を限定して書いてもらえると楽なのです。

            あと、テクニック的な話になりますが、話が飛ぶのは、論理の弱さを無自覚に認識しているため共感に訴えて補強しているのだと思われる可能性が高いので止めるべきです。(世界の危機を訴えるなんてのは相当な下策ですよ。)

            そして、基本的な用語や論理といった共通基盤がないとコミュニケーションは非常に困難なのです。
            私やとろいやさんが言う論理(論理体系)というのは、「AはBだ」と「AはBでない」は両立しない、というような公理から導かれるものです。この公理を否定した論理体系の構築は極めて困難ゆえ、一般的な「正しい」論理体系は価値観とは無関係に共有できるものです。
            # これについては、朝日新聞は日本の新聞では最高レベルです。
            # 七誌さんは小学生以下のレベルなので辛い。

  5. 射星人さん

    ああしろこうしろという直接的な表現でなくても
    相手の行動を促すことはできますよ。
    注射星人さんと端くれとの関係はそうやってできたものです。

    すがれば去っていきます。

    ココでは書き込まれるテキストが全てです。
    だから返事がしたくなるテキストにする。
    読みたくなるテキストは読みます。
    わかればレスしたくなる人も出てきます。
    読んでる人は二人だけじゃない。

    たまに来てくれる人がいるでしょ。読み取れたとき来るんです。

    わからないことは 否定も肯定もできないのです。

    注射星人さんのコメントが、意味が伝わるように変われば、
    レスが付くようになります。教令身だけど。

    ((;゚Д゚)オレシラナイ 

    1. mottonさん端くれさん
      丁寧なコメント有難うございます。
      ではコメントの内容を把握して会得したつもりになって、もう一度、「解決は存在しない、実は決着だけが存在している」理由の説明を試みてみます。

      「話が変わっとるやないけ」、てめえが説明するのは「正解は存在しない、実は解決だけが存在している」という主張じゃなかったんかい。
      というツッコミがどこからか聞こえてきそうですが。
      この二つは世界という大きな項をどんどん分解していくと、最終的には暴力による決着だけが残されるするという共通項を持っているのです。
      ですからこの二つの違いを説明することは同じことになるのです。
      まだ分解の余地がある正解は解決の言い換えよりも、これ以上分解の余地が見当たらないこの解決は決着の言い換えをである事を説明した方が結論に辿り着くのが速いと思うのです。

      まず「正解」という状況に依存して伸び縮みして揺れ動いている状態を強制的に止場(主張する表現の統一論化)を試みてみます。
      すると、個人の自由の尊重が日本国憲法13条に定められている状態に対して、なぜか既に憲法違反になる状態が発生してしまいます。
      更に文法的にも正解という状態は最初から頭の中に存在していた表現ではなく、何らかの動詞や述語の干渉を受けて「あれが○○の解決だった」という過去形化してから頭の中に発生する表現である事は判ると思います。

      このことから「正解がある特定の条件下では存在する」という考え方は論理矛盾が発生してしまうのです。

      これは鬼滅の刃に例えれば、「大正時代に鬼が人を食っていた」という物的証拠も検証に足りる記録も存在しないのに、「その前提でストーリーを組み立てるのは矛盾している」という主張と同じ対立構造になってしまいます。
      コレは確かに論理性に根差したした主張ですが、鬼滅の刃は大衆の支持というベクトルの違う論理性に根差したコンテンツなのです。
      この比較の結果が弁証法的には成立する論拠をもって唯物論的にも成立するはずだという理論を同じベースに載せて語ることは論理が最初から破綻する事を示しています。

      更にこのようなテクニカルな主張方法はその論理構造が既に頭に入っている知的な大衆の支持は得られず、最初から無視されてしまうのです。
      その為、その主張は最初から理解を得られません。
      理解を得られないという状態は最初から俎上にも上らないという事。それは矛盾した論理を語るトンデモ論と同じジャンルに区分けされてしまうのです。

      以上をもって「解決は存在しない、実は決着だけが存在している」という主張の理由の説明を終えたいと思います。
      この説明に何か異論・反論があればコメントをお願いします。

      1. 暴力による決着というのは、力の均衡点に収束して定常状態が得られたという意味です。
        それは、「定常状態を得よ」という問いに対する「正解」なのです。

        前にも書きましたが、「正解」とは字義的に「正しい”解”」のことでしょ。対となる「問い」が必ず存在するのです。
        そして、「問い」には特定の条件(前提、仮定)や「正しい」の定義が含まれます。

        注射星人さんが使っている「正解」とは、おそらく「真理」のことです。哲学的な定義はよく知りませんが、あらゆる条件やあらゆる主体の意志に依存しないものとでも言えばいいでしょうか。
        はい。これは存在しなくても構いません。存在しても構いません。どちらでも、我々の世界の認知において影響しません。

        我々は、この世界の認知において、色々な公理を仮定して記述します。それが、この世界と矛盾しなければ、仮定した公理は(我々の世界の認知という条件下においては)真理と同じです。

        # 哲学みたいな抽象的な話の中で、日本国憲法とか鬼滅の刃とか止めましょう。
        ちょっと付き合うと、鬼滅の刃は「大正時代に鬼が人を食っていた」という仮定の下での物語(フィクション)です。
        現実との検証をしないのがフィクションであり、「その前提でストーリーを組み立てるのは矛盾している」という主張には、論理性がないのです。
        (あまりにも基本的なことだが、私の読解が間違い?)

        1. >mottonさん
          御指摘のコメントで使用している「正解」は「種の存続性を最優先にする傾向」が正解という定義を意識的に用いたつもりです。

          コメントを短く簡潔にする為に何度も推敲を繰り返したので、
          解釈にズレが生まれる要素が混ざっていたかもしれません。
          >暴力による決着というのは、力の均衡点に収束して定常状態が得られたという意味です
          そういう意味では使っておりません。
          私の定義は、世界という大きな認識の要素を成立させている条件の項をどんどん分解して排除していくと(責任の連座制による支配とか、恐怖による縛りとか、責任感とか情動の優位性とか、シンパシーの作用とか)しかし、それらでは主体に対する恐怖を克服することは、死ねば何も守れないが故に不可能なので)最後に残る要素は暴力の総量の優劣しか残らない。
          という意味です。
          だから最終的な正解とは「暴力による決着」だけなのだという意味で使っております。

          1. それからコメントの枝葉末節を構成している細部に対して赤ペンチェックを付けていくと
            お互いに定義に対する定義の成立条件の開示を求める堂々巡りに陥ってしまい、会話や議論に攻撃性が生まれてしまうので好ましくないのです。

    2. 仮想人格

      これやったことあります。

      国語のテストでよくある問題形式。
      この時の○○の気持ちを以下の選択肢から選びなさい。
      素直に自分で選ぶとたいがい×。
      しようがないから自分で考えるのやめた。
      で、授業中は文系トップのA君の言動を観察してた。
      テストではその場面で最もA君が言いそうなことを
      推測して解答するようにした。
      7~8割当たるようになったという。

      1. 設問にある登場人物の心情を推測することと
        心情を推測するA君の答えを予測することとなにが違うのか。

        まだ端くれには理由がわかっていません。
        でも正答率には明らかな違いが生じたのは確かです。
        そしてこの手法を使うようになってからも、
        素の端くれが選ぶ選択肢と、端くれが予想するA君の選択肢は別のまま。最近はそんなテストやらないからわからないけどね。

    3. 注射星人さん

      真如、沙門ニ顕現スハ三輪身。

      mottonさんは正法身。
      菩薩部相手に心乱すようでは
      教令身から真如を得るなどおぼつきません。
      明王部を迎える準備としてひたすら励みましょう。

      期待できるのは一日1レスかな。
      お暇ならこっちに。

      1. もう三日も経過していた事に意識が及ばず、端くれさんが移動した場所に来ないかというお誘いかと勘違いしてました。
        同じ内容の重複になりますが

        時代の変化を観測すると
        時代が進めば進むほどに社会を構成する要素が別の常識や別の正義と遭遇する機会が増大化し、社会を構成する要素の各項に正義の定義の拡大、美の定義の拡大、論理の方法論の拡大が起きていく。
        その変化が社会全体の系を巻き込むほどに大きな渦を巻くのがルネッサンス。
        その衝撃が社会のシステムに否応なく変化を強制するのがショックドクトリン。
        その結果、社会の価値観そのものが大きく変わってしまう結果をパラダイムシフトと呼称しているのだと思うのです。
        全ての起発点は同じ「異教との遭遇」はずだと思うのです。

        逆に時代を過去に遡れば遡るほどに同じ系の中で価値観が朱子学化(先鋭化)していき、厳密さが研ぎ澄まされていく「価値観が田舎化」が起きている。
        「先進国ほど美人が多い」と文化的に評価されるのは先進国ほど整形技術が進んでいるというブラックジョークのような理由ではなく
        「先進国ほど多くの変化を受け入れて、価値観が多様化している」という文化面の評価のはずです。
        その上で
        設問にある
        >登場人物の心情を推測することと
        心情を推測するA君の答えを予測することとなにが違うのか。

        それは、誰もが事実を直感的に認識できる文明技術のわかりやすい変化よりも.文化面のわかりにくい変化が大きくリードを広げた結末、「常に意識に変化が起きることが届く速度に対して、意識の変化に対して常にブラックボックス化している、実際に変化が起こっている速度が大きく先行している」状態になっている為だと思います。

        1. 別の表現でコメントしてみます。
          >①登場人物の心情を推測することと
          >②心情を推測するA君の答えを予測すること
          これは①と②を自分というスパコンにデータ入力して計算している状態とも言い表せます。

          その観測結果は観測主体が帯びているバイアス(ワームやバク)によって傾向(角度)に変化が生まれる。

          その結果を観測主体が解釈(コンパイラ)した結果にも影響を及ぼす。
          すると観測主体が観測していたのは事実ではなく、「観測主体自身の変化を自分で観測していた」という結果が観測主体に出力されているだけだという結果になるのです。
          このコメントに異論反論や補足があればコメントください。

          1. 端くれは 「A君の行動予測を挟むことで理路が変化し別の結論に至る」と考えます。
            だから理路の理解を理解とする端くれには共感できません。

            仮に mottonさんや御師様のように、理路を必要としないとしても、バイアスが結果を変化させるなら結果が違う二つの方法に別のバイアスがかかっているはず。しかし提示されているバイアスは一つです。
            仮想人格A君を挟むことが正解になる理由もない。

            なぜ違うか。なぜ一方が有利か。わかりません。

          2. 注射星人さん  お願いします
            注射星人
            2021年1月29日 8:22 AM
            以後端くれのとのやり取りはこちらに返信してください。
            私がコメントの流れを理解しやすくためです。
            申し訳ないのですが移植します。

            2021年1月29日 1:21 PM

            まずは端くれさん
            >素直に自分で(仮想した相手の心理を)選ぶとたいがい×。
            >テストではその場面で最もA君が言いそうなことを
            推測(マークシート化)して解答するようにした。
            7~8割当たるようになったという。

            この部分が一連のコメントの理路を繋ぐ一番のキモの部分になっているはずです。

            そのテストは○×を判断しているのは、Aさんの視点から見れば自分に「教育パワハラ」を行っている相手です。
            ですからAさんが出力している出力結果はテストに対してではなく、テストの主体である教師に対してです。
            登場人物の全てに同じハラスメントという同一のバイアスが働いているのです。
            この時、Aさんの内観に現れた命題はテストの内容に素直に答える事ではなく、パワハラの主体に忖度する事です。
            だから出力されている回答は本心ではないのです。面従腹背が働いているのです。
            そういうロジックが働いているテストの結果からは何も読み取れません。
            端くれさんや教育機関側が得たい出力の回答は態度ではないはずなのです。
            行動なのですよね。
            その為にはこのテストは役に立たないはずです。

            人間は「自分は遊ぶ為に生まれてきた」という確信を持った動物であり
            人間に直接作用しているのは、ハラスメント(想像)と安寧(想像の抽象化)だけなはずです。
            生徒に影響を与えられるのは、群れが帯びている傾向による監視と、胸に(実体験または実験結果による)確信を刻むことだけだと考えます。

            御師様への返信は先ほどのコメの下に行くようにお願いしますね。

          3. Aはテストの設問でなく、教師の要求に答えたのですね。
            なぜ端くれの正答率が上がるかがわかりません。

            仮想人格AのモデルであるAは、端くれと3年間同級、出席番号は1違い。二人の関係は同期の者たちに親友と呼ばれる関係です。問題を作ったのは二人の担任です。今でも二人にとっては師です。

            今私がどんな気分か想像してください。

            議論するとき、感情を押さえる手間は少ないほどいい。
            そうなるように言葉を選んでください。

          4. 追加情報
            当初出題担当は 新規採用2年目の副担
            端くれの担任が指導教官。
            Xだらけになりあきらめたのは1学期末。
            Aの能力を把握しその観察を始める。効果は2学期末。
            進級時に出題者は担任に変更されている。

          5. この文を読んで、この時の登場人物Aの心情がどのようなものであるか、次の選択肢の中から選んで答えなさい。
            この問題で正解に必要な情報は二つ。
            それは、Aと取り巻く状況の情報と、
            出題に提示された状況下でAが抱くであろう心情を推測できる情報。
            両者を「他の選択肢を選ばない程度に」認識すれば正解できる。
            前者を「状況の情報」、後者を仮に「情動の傾向の情報」とする。

            パート1 一学期(仮想人格Aは存在しない)

            状況の情報が十分で、端くれが認識できるとする。
            ソンナワケ ナイ
            情動の傾向を誤認すれば、この時点で×

            情動の傾向の情報が不足すると、端くれの情動の傾向で推測する。
            反復学習の結果、端くれは自分の情動の傾向で推測するようになる。
            この時「出題者が想定していた情動の傾向」と、端くれの情動の傾向が一致しないとX。一致する確率を仮に一致率とする。

            御師様
            端くれと出題者の一致率はひどく低かったということですね。
            当時、後ろの席はA君。彼は返却された解答用紙を隠さず、
            マンテンダシ カクサンデイイヨネ
            後で聞けば解説してくれました。驚異的な一致率でした。

          6. 端くれさんへ
            私は、実は「教師の解説の誤り」を解説できるほど、読解力が高かったのですが、
            現代国語の得点はいつも85%ぐらいでした。

            「これは、模範解答は①だけど、②の方が正しいよな」
            「何で?」
            「だって、この文は……で、次の文は……だろ。じゃあ、その次は……となって、主人公は……という気持ちになるべきじゃないの」
            「でも、模範解答と解説は…」
            「そっちが間違ってるんだよ」
            嫌な高校生ですね。うちの高校には、そういうタイプが多かったですwww

            「問題の設定」より「ストーリーと登場人物の情動の必然性」を「出題の範囲を超えて」考えてしまうのです。
            問題のネタになっている作品を後で読んで「わりとつまらない、説得力の無いストーリー展開だなあ」と物足りなく感じたりしてね。
            「出題の意図に合わせるべき」がよく理解できなかったのです。思えば、もったいない事をしました。

          7. パート2 二学期(仮想人格Aの誕生とその成長。)

            正答率の上昇の原因は二つ。
            文中の情報の品質向上と仮想人格Aの成長。

            端くれの情動の傾向を参照すれば×。
            でもAの情動の傾向は参照する価値がある。
            Aの情動の傾向はAの言動によって理解が可能。
            そうやって作った仮想人格Aは観察によって成長する。
            国語の授業だけでは足りない。様々な状況での観察が必要だったはず。
            いま思い出せばいつもAを見てた。いつだって 振り返れば奴がいる。 
            ウシロノ セキダシ 

            あーそこ。 あっちの世界にはいかないように。

            仮想人格Aと出題者の一致率は向上したが、
            文中の情報の品質向上で、Aの情動の傾向を参照する機会は減っていった。
            誤選択の要素は情報の誤認識だけになっていく。

            御師様

            当時端くれはAの答えをかきたいと思うくらいには思い詰めてました。
            シケンチュウニハ オシエテ クレナイノ

            Aは高1の2学期開始の時点で「新採だった教師の状況を理解」し「自分と周囲に最も有利になる言動」ができました。当時はA言動の意味も目的も理解不能でした。今のはしくれにならわかります。不正行為とAは結び付きようがない。一致率の高さはAの言動と深い関係があるのですから。

          8. >なぜ端くれの正答率が上がるかがわかりません。

            どこまで手前勝手に言説を降り回していいものなのか。
            どこまで相手を立てて、自分の主張を下げた方が最終的な決着に辿り着けるのか、おそらくその答えは三つに登場人物にあると思うのです。
            私のコメントが抽象的過ぎて話が掴みにくいかと思いますが、どんな生物のどんな場面でも、主体から見た登場人物は常に三つ(三点)しか存在しないはずなのです。

            操作する「主体」と主体からの干渉を受ける「相手」そしてふたりの相互干渉をジャッジメントしている「第三者」
            郵便局員と受け取り手と、どこかで見ているかもしれない世間。もしも世間の眼がなくても差出人と受け取り手の間で郵便局が立ち合い人になっている。
            捕食動物と草食動物と双方の群れ。双方に群れが存在しなくても、狩の結果を見ているハイエナが存在している前提で狩りを終わらせる必要がある。

            全ての瞬間で三竦み、もしくは三権分立が監視している。
            関係に影響を与えるのは常に地形効果であり、地形効果=第三者の眼ですよね。
            第三者の眼=傾向なんです。
            世界のどんなに場面でも、宇宙のどんな場面でも登場人物は(主体)(相手)(観客)三点の視線だけなんですよ。
            ですから、端くれさんの正解率に影響を与えていのは三点目の「観客」であるはずなんです。
            端くれさんの主題が解決なのか理解なのか私の中で混乱してきましたので、どうか参考になりますように。

          9. 注射星人さん
            >手前勝手に言説を
            読んでもらいたい相手が読んでくれる範囲で。

            >下げた方が最終的な決着に辿り着けるのか、
            端くれは下げない。書かないだけ。

            「主体」と「相手」「第三者」
            環境=地形効果=第三者

            第三者の眼=傾向バイアス
            正解率に影響するのは「観客」。

            端くれの正答率に影響する観客を
            具体的な例(郵便局員みたいに)おしえてください。

            端くれの今の目的はコミュニケーション能力の向上。
            目標は注射星人さんの意見の理解。

            他にも「自分のもつ疑問の解決」があります。、
            それは直接に誰かにお願いするものではありません。
            イロンナ イミデ
            十分参考にさせていただいてます。心配はご無用に願います。

          10. パート3 仮想人格Aの吸収。

            情動の傾向は以下のいずれかを使用する。
            1 問題中の登場人物の情動の傾向
            2 仮想人格Aの情動の傾向
            3 端くれの情動の傾向 

            当時の端くれは1と2を区別していなかったはず。
            3学期は仮想人格を使う機会はほぼなかった。出題者は非常に優秀な方でした。指導教官も。
            進級したのちは仮想人格Aは不要で、万一使った場合もほぼ誤答につながっていないでしょう。
            確実に言えるのは、2学期以降試験で端くれの情動を参照してはいないこと。

            端くれの情動の傾向を使用するを言い換えれば自分の気持ちで選ぶ。
            誤答につながるこの間違いを排除できたことが最重要。
            出題者の成長が次点。
            仮想人格はそのはざまでうまく機能したにすぎない。という結論になります。

            以上で端くれの考察を終わります。

            御師様

            「ストーリーと登場人物の情動」を「出題の範囲を超えて」
            考えることは端くれも普通にやってました。当然x貰ってました。
            仮想人格Aに考えてもらうようにしてからなくなりましたけど。

            端くれの人格には仮想人格Aが混ざってる気がするんです。
            試験の点数上がるよりこっちのほうが重要かもしれない。

          11. 端くれさんへ
            今回の話題で「分かった」事。
            基本は、
            1「文意を理解する事」
            そして「文が提示する状況から」…
            2「登場人物の心情を想定する事」
            3「自分の心情を想定する事」
            4「【理想的な心情】を想定する事」
            人間は、提示された情報から、こういう「理解」を組み立てます。

            また、あるタイプの人は、
            5「文意を曲げる」
            6「文そのものを変形する」
            そして「曲解・変形された文」から、先に分類したような様々な組み立てを行います。

            さらに、そこに「提示された情報を、どう利用するか」という目的が加わります。

            私は「現代国語の得点を気にしなかった」ので、1+4+6で「既存の自己」の中で完結してしまいました。
            端くれさんは「文意を理解する」という目的を達成するために(他の目的も有るでしょう)、「文意をきちんと理解できそうな仮想人格」の導入、という面白い手法を採用したわけです。
            「国語入試問題必勝法」としては、こちらの方が優れていますが。

            これは、実は3の応用と言えるでしょうか。
            この仮想人格は「自分の中」にありますが「自分本来」ではない、というのがミソですね。
            あるいは「自分が本来の自分だと思っているモノが、実はそうではない事」の顕現かも知れません。
            もしかしたら「仮想人格のモデルになったAさん」も、そういう操作を行っていたのかも知れませんね。

            国語入試問題必勝法を題材にしただけで、人間の「世界理解」について、こういう風に考察が進むわけです。
            面白いですね。

          12. 御師様にも楽んでいただけてうれしいです。

            「確率的にある程度正しければいい」
            「出題者の能力に問題がある可能性」
            いただいた二つのヒントで、ずっと抱えてた疑問がひとつ片付いてしまいました。

            なぜここまで的確なヒントが出せるのでしょう。
            ワカリマセン

            これはこれで悪くない考察だとは思うのです。でも端くれは、
            正しい答えに至るための理路を構築していたはずなのに、
            できたのは「なぜ不正解にならなくなったのか」の説明です。
            本当にこれでよかったんでしょうか。

          13. 端くれさんのコメント群を私にとって読みやすいように私の側に寄せて翻訳してみました

            端くれさんにとっては非常に難読になると思います。
            登場人物は
            ①端くれさん=責任を感じている大人の代表
            ②リーダーAは端くれさんの設定では端くれさん陣営に属している味方
            このら①と②は同じものであり主体です
            ③ 自分の持つ巨大な正解を持ち込んでくるアレ
            ④端くれさんが断念したプランAのテスト
            ⑤ 素直に自分で選ぶ第一案
            ⑥ トップのA君
            ⑦A君を①が解析して作成したプランBのテスト
            ⑧④と⑦の結果の違いに謎を感じる①
            以上、8つの現象が物語の登場人物として現れています。
            すると①②⑥⑧は全て同一人物であり「主体」です
            ④⑤⑦は同じ「第三者」として括れる情報
            ③だけが主体の「相手」

            すると端くれさんが干渉したい
            と同時に端くれさんに干渉している
            相手は「アレ」だけだという結論になりました。
            端くれさんがアレに負けたと感じている結果として⑧の感じている疑問が過去形として現れた訳です
            すると一連の流れから
            ⑧の正体は「後悔」またはアレを許せない「義憤」であると推測できます。

          14. ④端くれさんが断念したプランAのテスト
            ⑤ 素直に自分で選ぶ第一案
            ⑦A君を①が解析して作成したプランBのテスト
            は全て「傾向」です。
            ④と⑦は端くれさんが持つ傾向
            ⑤はテストの被験者が持つ傾向
            今の日本が帯びている地形効果は個人の快楽を追求する傾向が群れを維持する傾向よりも強いという結果を示している。
            なぜなら、世界全体としては53%を占める宗教観は同一の死は主張の沈黙であり絶対不可避だと感じているが、「予定説」により救われる道は残されているが、それは現世では不可視化されているので精一杯生きる事しか出来ないという世界観で縛られているから。
            予定説により死ではなく、生きることに縛られている。
            だから誰にも止められないはずの自殺だけは個人の権利ではなく罪なんです。
            欧米の価値観は全て聖書に縛られている。
            捕鯨の禁止も「聖書」に鱗のない魚は穢れるから食べる事を禁止されているから。
            日本の価値観は死ぬ事は個人の決断で決める事。
            死は誰にでも平等に訪れるから、死に方を選ぶ事しか出来ない。
            だから日本では死な事を禁止されているので快楽を追求する欧米人の価値観ではなく、死に方は選べるので笑って死ねるような生き方を選ぶ生き方になるのです。

        2. >勘違いしてました。

          文を省力することの危険がよくわかる例ですね。

          >それは、誰もが事実を直感的に
          ココから質問を始めます。
          下のコメントのほうが端くれにはわかりやすいので移動します。

          前半の文を読んだところで思ったことは
          このあたりは次のコメントでやりたい。

          急がないでくださいね。
          少なくとも端くれは 次のコメントも読みます。

          急いで言いたいことをたくさん言おうとすると
          読む側はあそこの表現でいう 「長い。三行で」 
          という気分になっちゃうのです。

          1. とりあえず、ここにぶら下がって、
            「国語入試問題必勝法」を。

            なぜ「この文を読んで、この時の登場人物Aの心情がどのようなものであるか、次の選択肢の中から選んで答えなさい」という問題に、正解を導けないのか?

            理由は、次のいずれかです。
            1、「問題を誤って設定しているから」
            2、「文を正しく読んでいないから」
            3、「『この文』が悪文で、何が書いてあるのか分からないから」

            もっとも多いのは、1。
            この問題は「この文は、Aの心情を、どう表現しているのか?」です。
            ゆえに「この文を読解するべき」であって、
            「この文が表現する状況に自分が置かれたら、どういう心情になるか」を答えてはいけません。
            しかし、そういう風に「問題設定してしまう」生徒が多いし、教師の側もそういう風に誤解している場合も。

            ※脱線
            「状況説明ばかりに終始していて、Aの心情を推測できる部分が無い文」が出されたら「バカな問題だすんじゃねえよ」と、教師に抗議しなくてはいけませんが。その場合の正解は「この文からは、Aの心情を推測できない」となります。
            国語の問題には、よく有りますが、そういう例文を使うレベルの教師は、生徒が「この正解」を言うと、怪訝そうな顔をします。ステレオタイプの「状況と心情」しか想定できないレベルの人だろうから。

            「提示された文から、登場人物の心情を読み取る」を「拡張」すると「提示された表現から、発信者の意図を覚知する」となります。
            そこに「ある人がこの表現を提示された場合に発信者の意図をどのように覚知する、と自分は想像するか」を入れると、面白い思考実験になりますね。

            これは「物事が分かるとはどういう事か」及び「コミュニケーションの根本」に関わる問題なので、また後で続きを。

          2. 「この文」から読み取るべき「Aの心情」は、「客観的に正しいモノ」である必要はありません。
            前に用いた表現を繰り返すと「確率的にある程度正しければいい」つまり「だいたい合っていればいい」のです。

            国語の問題として、だけではなくて、人間のコミュニケーションは基本的にそういうモノです。
            そして、コミュニケーションだけじゃなくて「世界認識」が、そもそも「そういうモノ」だと、私は考えております。

            なぜなら「自分の知覚」しか、人は経験できないから。
            そして「自分の経験の不確実性」を「アプリオリ的に分かっている」から。
            その前提に立って、他者の存在を「推測」し、その「推測された他者」と「自分の知覚という不確実なモノ」を使用して「情報交換」する。
            それを繰り返して「世界認識の精度」を上げて行く。
            その「確かさ・正しさ」は、情報交換を成立させるために共有される「フレーム」の限度内です。
            その「フレーム自体」が「正しい」というのも「フレームを共有する者個々の表象の限度内において」です。

            思うに「正しい」という事について、注射星人さんは【「カント的な意味の物自体」を経験し、その客観的な姿を把握する事】と考えているのではないですか。
            「物自体を経験する事はできない」というカントの結論に従っておきませんか。

            別の言い方をすれば「正しさのイデア」だけが「正しい」と言っているように感じられます。
            「イデアではない、限定的な正しさ」が「人間にとっては、正しさである」と認めてください。

          3. まずは端くれさん
            >素直に自分で(仮想した相手の心理を)選ぶとたいがい×。
            >テストではその場面で最もA君が言いそうなことを
            推測(マークシート化)して解答するようにした。
            7~8割当たるようになったという。

            この部分が一連のコメントの理路を繋ぐ一番のキモの部分になっているはずです。

            そのテストは○×を判断しているのは、Aさんの視点から見れば自分に「教育パワハラ」を行っている相手です。
            ですからAさんが出力している出力結果はテストに対してではなく、テストの主体である教師に対してです。
            登場人物の全てに同じハラスメントという同一のバイアスが働いているのです。
            この時、Aさんの内観に現れた命題はテストの内容に素直に答える事ではなく、パワハラの主体に忖度する事です。
            だから出力されている回答は本心ではないのです。面従腹背が働いているのです。
            そういうロジックが働いているテストの結果からは何も読み取れません。
            端くれさんや教育機関側が得たい出力の回答は態度ではないはずなのです。
            行動なのですよね。
            その為にはこのテストは役に立たないはずです。

            人間は「自分は遊ぶ為に生まれてきた」という確信を持った動物であり
            人間に直接作用しているのは、ハラスメント(想像)と安寧(想像の抽象化)だけなはずです。
            生徒に影響を与えられるのは、群れが帯びている傾向による監視と、胸に(実体験または実験結果による)確信を刻むことだけだと考えます。

          4. 御師様 ありがとうございます。自己解決できた気がします。

            「出題者の能力に問題がある可能性」。考えたことがありませんでした。
            追加条件として二つ。
            国語の出題者の交代と、仮想人格Aの導入がほぼ同時だったこと。
            仮想人格AのモデルA君と端くれの行動の違い。
            これでほぼ説明できます。

          5. とろいやさん
            お待たせしました。
            >思うに「正しい」という事について、注射星人さんは【「カント的な意味の物自体」を経験し、その客観的な姿を把握する事】と考えているのではないですか。

            まったく違います。
            確かにカント理論の「想像」「抽象」「現実」の構成をよく見ると、想像と抽象までは人間が頭の中で操作できる範疇に属している。
            しかし、現実はこの二つとは少し違う。
            抽象は対象が「想像」という操作を得た結果として人間の頭の中に現れる現象ですが、現実は想像が対象を抽象化した結果を操作して現実化する事は出来ません。
            できるのは実現化です。

            ですので、翻訳の間違いなのか理解の誤りなのか判りませんが、この列に並べるなら正しい表記は「事実」もしくは「順位」なのではないでしょうか。
            >「物自体を経験する事はできない」というカントの結論に従っておきませんか。

            ですので、その結論は理解しているつもりです。
            物自体ではなく真理の正当性自体を経験する事はできないですよね。多分。

            >「確かさ・正しさ」は、情報交換を成立させるために共有される「フレーム」の限度内です。

            そのフレームは情報の内容や体験によって伸び縮みしていますよね。
            そのフレームの先が更に伸びて楔を打ち込める範囲が拡大すれば「確かさ・正しさ」も同時に拡張されるのではないでしょうか。

            私の主張は欧米式民主主義では早いか遅いかの違いがあるだけで、最初から行き着く先は破綻する事が決定されている。
            しかし、他に選択肢があるならば世界全体がその船に避難するはずだ。
            選択肢がないから他の選択肢を選べないだけですよね。
            「その船が日本式民主主義」というのが私の主張の論点です。
            戦後の日本の状況が少しづつ見えてきはいましたが、
            件の1月9日を過ぎるまで、いくら思索を束ねても異なる知識同士を比較しても、「全てが逆」だという私の確信の本質を説明可能な知見には達しませんでした。
            ですが、あのアメリカの大統領選挙の結果を見てから、わたしが確信を得るに足りていなかったパーツが嵌ったのだと思うのです。
            あの不正の枢軸と呼ぶに相応しいショッキングな汚なさを見せ付けられて。

        3. >正しい答えに至るための理路を構築していたはずなのに、
          できたのは「なぜ不正解にならなくなったのか」の説明です。

          その答えは明白です。
          コレは端くれさんへの攻撃ではないので落ち着いてください。
          端くれさんが登場人物⑧を①②⑥と同じ自分の主体である事を受け入れ難いからでしょう。
          ではなぜ受け入れ難いのか
          端くれさんが、このストーリーを「不条理」または「理不尽」であると感じているからだと思います。

          1. いろいろわかったような。でもうまく伝わるかな。
            ダジョウブ カナ ジシンナイ

            本当にこれでよかったんでしょうか。という一番新しいコメントに答えないでください。それは師とろいやとの会話で師やほかの人たちに聞いたのです。

            端くれが注射星人さんにしたのは
            「端くれの正答率に影響する観客とは何か」
            という質問です。

            それがあなたひとりにした質問です。
            あなたはそれに こたえなければならない。

            私に合わせてくれるかという質問に答えず、
            表現を変えたあなたの行動を意思と受け取りました。
            私はあなたの文の変化を返事と受け取りました。

            多分あなたがしたいのは対話ではないのです。
            私に聞いてもらいたい。誰かに聞いてほしい。
            お前は質問なんかするな、いいから話を聞け。

            あなたの言葉は丁寧でも伝わるのはそういう意志です。

            私がしたいのは対話です。対話の中で生まれるものが欲しい。

            今度も同じように意思を示してください。
            あなたにした質問にあなたが答えてほしい。
            答えない今のあなたは、端くれと対話をするつもりはない。
            あなたのコメントはではそう受け取るしかないのです。

          2. >私がしたいのは対話です。対話の中で生まれるものが欲しい。

            誤解です。

            私の中に、どのコメントに返信すれば端くれさん一人に届くコメントになるのかという端くれさんの誘導への読み取りに疲れにより「不正解」が混ざりこだからです。

            一度投稿したコメントを消す事が出来なかった為に誤解が生まれたのです。

          3. 誤解である、いうことばでなく「質問に答える」という行動をテキストに表してくださいね。

            どのような言葉が書かれていたとしても上のレスから端くれが受け取れたのは
            「質問に答える必要はない」という意思です。

            テキスト中に質問の答えがない。いいかえれば「注射星人さんは質問に答えない」
            だから端くれはこう考えます。
            「注射星人さんは次も質問に答えないかもしれない」

            質問の答えがないテキストを何度も読めばこう変わります。
            「注射星人さんは質問にはこたえないだろう」

            これを端くれは「注射星人さんの意思」と言いっているのです。

            注射星人さんの言葉ではも端くれの経験を訂正できません。
            「射星人さんのしたコメントは前の端くれの質問の答えではない」
            この経験は、もう何度も繰り返されています。

            端くれはそうやって意思を受け取ります。
            「テキストにある言葉ではない別の何か」
            で意思を判断しているのです。

            あなたと対話をはじめたときもそうしました。
            終わるときも同じようにする。
            端くれは、端くれがそうすることを知っています。

            端くれには謝罪も弁明も感謝も不要です。
            ナンドモ イッタ
            端くれは疑問の答えが欲しい。
            ヒント ダケデモイイ

            待ってるんですよ。

          4. 今、この議論エントリー2で起こっていることはこういう事だと思うのです。

            ①私が詰めようとしている事を常連の皆さんが理解できない状態が私には衝撃的であり、私がコミニケーションの修正を図っている状態です。
            ②常連の皆さんは十人十色であり、コミュ障である私がそのカラーに合わせようと努力すると、今度は皆さんの間で私の態度への解釈に誤解が生じてしまい、私への修正の要求が発生する。
            ③皆さんの方が私に合わせる事を私の気持ちが望んでコメントしてしまうと、今度は私の「ひとりよがり」により皆さんが私から離れていき、誰も居なくなる。

            すると、どの選択肢を私が選んでも、客観的に見て私ひとりが「かまってちゃん」に映るというジレンマが生じてしまう。
            この状態を私が打破しようと他の議論に参加をジャンプして繰り返していくと「荒らし行為」が発生してしまい誰も得をしなくなる。

            この酷いパラドックスを解消するには、私はとりあえず再び黙って、一番このブログで信用を得ているように私には感じられる「とろいやさん」の「私達は世界をどう認識しているか」の「3回目」の投稿を再び待つ。

            その後は、その投稿内容を私を含む全員で精査して議論する。
            そこに戻るのが直近の一番本筋だと思うのです。
            「2回目」には沈黙という同意はあっても反駁は起きませんでしたので、他の議論に移ってしまったのです。

            私はその間、戦略的忍耐によってどの議論にも参加を我慢して休憩します。

          5. そのコメントの内容にも
            端くれの質問の答えが含まれていません。

            「第三者とはだれを指していますか。」

            答えがありません。

            「注射星人さんは私の質問には答えない。」

            また、です。

            質問の「正しい答え」でなくても良いのです。

            私の直前のコメントの説明は下手だったかもしれません。
            ならば「何を言ってるかわからない」と答えてください。
            端くれは何度でも説明します。たとえ 結局は「伝わらない」のだとしても。

            答えがわからないならそういってください。
            「よくわからない」は答の一つです。
            ソノホウガ タノシイ
            一緒に考えたい。

            いろいろな答えがあります。でも何もないのです。

            そのコメントの内容から理解したことを書いてみます。

            答えは第三者のバイアス。
            端くれの質問は無意味。
            端くれはわからなくてもいい
            とにかくバイアス。
            注射星人はわかる人と話す。
            端くれはいらない

            排除されたことはわかります。
            理解と同時に悲という感情をもちます。

            残念です。

          6. 会得したナニカについてここまでのまとめ。

            端くれはバイアスがどのようなものか知りたい。
            だから注射星人さんが何をバイアスと呼ぶかを知ろうとした。

            端くれは定義を必要とする。だから端くれの中で定義を試みた。
            思考に必要な範囲でバイアスの定義を始めた。

            しかし
            注射星人さんは言語による定義をしない。
            注射星人さんは例示だけをする。

            例示されるのは現象そのもの。
            現象の中にあるバイアスを示さない。

            直感による判断を拒否するというバイアスが
            端くれのバイアスに対する理解を阻む。

            直感を拒否するバイアス

            直感を使うべきではないと端くれに命令している第三者。
            注射星人さんはこう表現するだろう。

            端くれの何が拒否しているのか。

            信仰。習得した研究法。どちらも傾向という言葉によく合う。

            甲の正答率を上げたのはバイアス。
            出題者はバイアス。
            出題者が提示する情報を増加させるバイアス。
            出題者に情報増やそうと思わせたバイアス
            出題者が情報を増やすよう指示した指導教官もバイアス。

            彼の表現にうまく一致する。

            変化をもたらすもの。それがバイアス。

            端くれの使う用語で近いものを探す。
            修行者の端くれだと 因縁
            科学者の端くれだと 力
            どちらも示されたナニカをすべて含んでいます。

            イクラ ナンデモ コレ

            正答率をあげたバイアスは
            直感を拒否するバイアスと同じものなのか。
            階層がちがうだけか。
            同じものが別の方向を持ちうるのか。
            どの階層で力と区別されるのか
            そんなことする必要も意味もないのか。

            端くれに場面ごとのバイアスの姿を知る必要がある。

            でも注射星人さんには不要。見えているから。
            だから端くれにも見えるはずのそれを次々にゆびさす。
            でも端くれには見えない。
            端くれの欲しいものはいつまで待っても与えられない。

            不快です。端くれには耐えがたい。

            おそらくは苦痛を見ることもできるのでしょう。
            注射星人さんは
            端くれを排除することで端くれを救おうとする。
            イマココ

            端くれはもう限界です。
            能力を超えることは危険。これも端くれのw
            飛び越せない溝を飛び越そうとする危険。
            飛び越えた向こう側にあるものに対する恐怖。
            克服する動機と勇気が足りません。
            端くれは注射星人さんにはふさわしくない。
            サイショ カラ ソウ イッテタネ。

            端くれはこのあたりでやめておきます。

            以後は注射星人さんと師との対話に期待します。
            読ませてもらいます。
            ありがとうございました。

  6. 「私たちは、世界を、どのように認識しているか」第3回

    注射星人さんの話がどう通じないか。
    注射星人さんと話がどう通じないか。
    この問題を考察するには、「認識の根源」までダイブしなければならないかな、と感じて、深いところまで潜ろうとしています。
    とても「長い考察」になります。まだ、その3回目です。

    人間は、世界をまず「視る」。
    これは比喩であって、実際には「知覚機能によって、外界を何かしら感知する」。
    この段階ですでに「区別」は「知覚機能の一部」として、そして「同時」に、「表象という理性機能の一部として」生じている、と思われます。
    これは「私自身の精神活動」を観察すると、知覚と表象の起こる順番が確定できないから、です。
    論理的には「知覚」⇒「表象」なのですが、同時に起こっているとしか思えないぐらい「近接」しています。

    人間の「心の働き」は「知覚」と「表象」とを「同時に」している、という仮定が、提示されました。
    言い換えてみましょう。
    「何かを視る」というのは「単に映像を知覚する」のではなくて「映像を区別する表象作用」を含むのです。
    ※「視る」は比喩だからね、くどいけど。

    この「区別」の段階で、すでに「バイアス」が生じます。
    そもそも「生理現象としての知覚」において、人によって「見え方」が違う。

    「虹がどう見えるか」を考えてみましょう。
    「七色」に見えている、という事は、実は無い。
    何となくグラデーションがついて、いろいろに重なり合っている。
    それが「虹本来の見え方=原初的知覚」です。
    しかし、原初的知覚と同時に「部分によって、見え方が違うので、部分を区別する」という「表象の原型」が生じます。

    つまり、原初的知覚と同時に、「知覚したものごとを、ある部分と別のある部分に分ける」という心理作用が生じるのです。

    この心理作用は「生理的バイアス」に決定的な影響を受けている。
    そして「表象」は「高度の抽象化の前段階」を含みます。
    心理作用全体は、この「原初的抽象化」において、すでに「文化的バイアス」にある程度の影響を受けます。
    この「バイアスによる支配」は、理性の働きが次の段階になると、さらに強くなります。
    「表象の明確化」と「概念形成」と「言語化」において「文化的バイアス」の影響が決定的になるから、です。
    「バイアス」を「傾向」と表現すれば、だいたい注射星人さんが何度も述べた事と、重なるのではないでしょうか。

    注射星人さんは、ここで「立ちすくんでいる」ように思われます。
    それが「何やかにやに対する」、「傾向に過ぎない」という言い方になっているのでは。

    あるいは、注射星人さんが言いたい事は「そういう理性の働きは、最終的にはバイアスの影響を払拭できない」という事かも知れません。
    ※そして「西欧的思考様式はその文化的バイアスの影響を脱する事は不可能であり、破滅への道を必然的に進んで行く」という事がごっちゃになっている。

    しかし、私は「人間の理性は、バイアスを修正しようとする方向へ働く」と思います。
    なので「西欧的思考様式もアウフヘーベンが可能である」とも思っています。
    もちろん、そのアウフヘーベンは「日本的思考様式」の導入によってなされると予想されますが、それ以外の思考様式も参入可能かな、と。
    つまり「西欧的思考様式」と「日本的思考様式」は対立するテーゼではありますが、「止揚」可能だろう、と。
    ※注射星人さんは、時折「止場」と書きますが、誤記でしょう。
    「止める+揚げる=止揚(しよう)」です。

    そういう意味で「大統一理論」が必要なのは、物理学よりも「哲学」だと思います。
    とりあえず、今夜はここまで。

    1. 「バイアス」と言ってしまうと、正しいものが存在するという前提の上でのそこからの偏り(誤り)になってしまうので、正しいものは存在しないという注射星人さんの思想では矛盾した用語になりそうなので、別の用語がいいでしょうね。(「傾向」もちょっと違う気がする。)
      # というか、英語がどうたらこうたら言いながら、和製英語なんか使うなー。脳内でまず「印加電圧」に訳される人もいるんだ。ぷんすか。

      世界が ABCDEF… だった場合に、AACDEF… に見える人や ADCBEF… に見える人がいるというのと、AB だけ見える人や BCDE だけ見える人がいるというのは違うと思います。
      一般的に否定的に使われる「バイアス」の多くは前者で「認識の誤り」です。
      一方で、「文化的バイアス」の多くは後者で「認識の限界」です。(例えば、多くの日本人は稲を見て「ごはん」を認識するが、草にしか見えない人々も世界にはいる。)

      後者の人が世界は AB だとか BCDE だとか断定すると「誤り」ですが、限界が存在することを理解していれば誤りではありません。
      # 宗教は前者で、科学は後者だと思うんだがなあ。

      >人間の理性は、バイアスを修正しようとする方向へ働く

      「誤り」を正す(認識を一致させる)方向と、「限界」を広げる(共有できる認識を拡大する)方向があるのではないかと。
      後者は「修正」ではなくて、新たな認識主体の「構築」かと。
      # 科学はその一つではないかなあ。西欧科学は、キリスト教という強烈なバイアスを正すのではなくて、神を必要としない領域(科学で共有される領域)を少しずつ拡大してきたのではないかな。

      1. >端くれさん
        >とろいやさん
        >mottonさん
        ありがとうございます。
        私の予想では全員が私と向き合うことよりも、排除する事を選択して、私との対話への「無視」を選択されるに違いないと確信しておりました。

        「戻ってこられた事」は
        完全に私にとっても予想外の驚愕であり、喜びです。
        早速、とろいやさんのコメントを「解剖」させてください。
        mottonさんへの返レスはサーカスをするのようなロジックが必要になるので、とりあえず横へ置いて置かせてください。

        >注射星人さんは、ここで「立ちすくんでいる」ように思われます。
        それが「何やかにやに対する」、「傾向に過ぎない」という言い方になっているのでは。
        >あるいは、注射星人さんが言いたい事は「そういう理性の働きは、最終的にはバイアスの影響を払拭できない」という事かも知れません。
        >西欧的思考様式もアウフヘーベンが可能である」とも思っています。

        不可能です。
        なぜなら、欧米式の結論は欧米式思考言語によって行われるからです。
        欧米式思考言語は必ず「主体」が「主題」を統治します。
        それを世界の何もかもを理解している風に見える馬淵睦夫氏ですら「衝動がある」としか表現できない。
        私の参考資料になった山本哲士氏ですら、「日本語への誤認を解く事」に生涯を費やしていらっしゃるように見受けられる。

        「世界をどう認識しているか」を知る為に全ての言語の言語構造を把握する必要はないのです。
        必要な羅針盤はカール・ヴィルヘルム・フォン・フンボルト博士の理論だけなのです。
        その理論は近代の視点から見れば、差別に立脚している訳でもなんでもない。
        極めて合理的であり、付け入る隙のない解釈なのです。

        「世界をどう認識しているか」の正体は思考言語であり、思考言語の傾向を決めているものは民族の持つ宗教観だと私の直感が告げています。

        その宗教観を作っているものは「何に驚異を感じているか」だと考えます。
        日本列島は生け簀に住んでいるような恵まれた環境であり、プレートの重なりにより立ち上がる火山帯により、空に常に干潮が起きているような環境であり、それによる空中への干渉で適度な雨量を手にしており、その雨が日本列島全土ににくまなく軟水の恵みを齎す。
        それを逆の視点から見れば、地震や台風の自然災害に曝されてきた為に自然災害の克服こそが近々の課題であり、「避けられない死」というパラダイムシフトが日常であり「自然が神」という信仰へ至った。
        逆にヨーロッパは複数ヶ所の「肥沃さの焦点」から争いが恒常化しており、戦争というショック・ドクトリンを日常的に呼吸していた。
        すると、人災こそが最大の厄災であり「死という沈黙からの救い」が信仰になった。
        イスラム教・キリスト教の勢力を足すと世界の宗教の53%にも達します。
        これは世界の半分以上の「傾向の同盟」が存在している事と同じ事を意味しますよね。

        とろいやさんの考察は3回目でも更にその地下へ固い岩盤に突き当たる。
        それは失礼を承知ながら申し上げますと、欧米式の思考回路を採用しているだからだと思うのです。
        欧米式だと一神教信仰により「絶対」が存在しているのです。
        論理学を突き詰めていくと「無と有」という岩盤に突き当たっても、尚且つ「絶対」が突き破れない。

        「無と有」はセットで真理の壁であり、人間はそこで立ち往生するしかないはず。
        日本式思考回路だと真理はセットであり答えはバランスを取る事なのです。
        すると、どちらへ向かうかを決めるのは「傾向」だけだという結論になるのです。
        最後に再びコメント戻ってきてくれた事を本当に感謝します。

        1. いえ、まだ対話のフェーズではありません。
          注射星人さんを観察しているフェーズです。観察して対話のための「辞書」を作っているところです。異「星人」とのファーストコンタクトの常道です。(そちらでも観察して協力して欲しいが、してくれないから時間がかかる。)

          注射星人さんの主張の主題には興味があるのですが、主張のロジックはなぜそれでいいと思えるのか不思議なのです。
          例えば、「バイアス」という言葉はオールマイティなのです。相手が何を言っても、それで否定できるので。しかし、同じロジックで自分も否定されます。そうではないと言うならそれは信仰でしかないのですが。

          # サーカスのようなロジックは使ってませんよ。

      2. さてと、mottonさんの言う通り、まだ対話にはなっていないようですが、それでも「近づいて」は、来ました。

        第3回は、私が考えている事の「垂れ流し」になりました。
        ※mottonさんのレスで、私自身にも、少し「分かるように」なりました。ありがたい。
        ※注射星人さんのレスによっては、
        「一般的な意味では、分かるようには」ならなかったと思いますが、
        私自身は、注射星人さんの抱えている問題を理解するきっかけが掴めたように感じております。
        ※注射星人さんのこれまでのレスを、端くれさんが「注射星人さんに、会話を拒絶されたと受け取った事」は、
        コミュ障の人に「対話」を持ちかけて、それが失敗するパターンの一つ、「自閉症の人との会話が、なかなか成立しないような事」だと思います。
        「拒絶」と「かみ合わない」は、似ていますけど、違います。
        かみ合わせようとする意思が、注射星人さんのレスからうかがえますので、諦めるのは早いのではないか、と。

        さて、私のこのテーマについての書き込みは、今後は、多分「もっと、垂れ流しに」なります。
        とても難しい事を述べようと試みているので、第4回は、さらに晦渋になるでしょう。

        で、それを踏まえて、以下、注射星人さんへの注文。
        そういうわけですから、私の書き込みへの感想としてのコメントも「一方的」でも良いわけですが、
        出来れば「対話」にしたい。
        なので「問い」と「答え」の「対応関係」を意識してください。

        特に、
        「>」を使用して、文章の一部を特定したときは、それを【自分がどのような問いとして受け取ったか】と【その問いに対する答え】を、【語句を一般的な用法で使って】書いてください。

        コミュニケーションが成立するまで、あと、もう少しのところまで来ているように感じられます。

        1. これまでに私と常連の皆さんとの間で起きた事を私の中で総括してみると、納得させる為の日本式民主主義と、説得する為の欧米式民主主義との絶望的な彼我の違いが身に染みて判ります。

          とろいやさんの「四回目」が投稿されるまでにまだ少し猶予がありそうですので、その合間にmottonさんへの返レスを今から約24時間を目処にして練ってみます。

          1. 理路で正解する理由を知りたかったのに
            不正解をふせぐことで説明しちゃった
            みたいなやつかな。

            ヘンジ イラナイ ガンバレ

          2. 返答いただけるなら、「日本式」や「欧米式」などの用語を使わないでください。「民主主義」などの強いバイアスがかかっている用語も。
            それらに対する注射星人さんの認識(から導かれる”注射星人さん語”における定義)が私には分かりませんので。

            # 日本式民主主義ってなんぞ。日本式を決定づけるものはなんぞ。その有無で絶望的に違うなら民主主義とはなんぞ。そもそも対話や思考が民主主義に縛られるのか?とか、まるで分からない。分からない理由が、用語なのかロジックなのかも分からない。

            以下、「日本式」や「欧米式」を使わないで欲しい背景を説明しておきます。(以下に挙げる本を読んで欲しいし、既読なら私が言いたいことは分かるはずなので、それをふまえて説明して欲しい。)

            まず、典型的な古い日本.vs.欧米の思考は『文明の生態史観』(1957)で終わっています。科学的な思考で、日本と西欧(欧米ではない)の親近性とそれ以外の世界との対比を説明したものです。(とろいやさんや私は「欧米」ではなく「西欧」を意図的に使うことで、典型的な古い思考ではないことを示しています。)

            しかし、欧米の一般社会レベルでその思考に至ったのは『銃・病原菌・鉄』(1997)とずっと遅く、欧米に影響された日本でも一般社会レベルでは典型的な日本.vs.欧米の思考がずっと続いていました。
            言語の主語がどうたらというのは、その典型です。(なら、日本語と似た構造をとる朝鮮語やモンゴル語やトルコ語の話者の思考は日本人と同じかとまず考えてしまい、もううんざりなのです。)

            だから、上記をふまえて一周回って、日本.vs.欧米の新たな視点を提供していただけるなら歓迎します。
            しかし、「日本式」や「欧米式」のような用語を使うと、典型的な古い日本.vs.欧米の思考と(我々の方では)分離できません。だから、新たな視点があるのであれば使わないでください。

      3. # 宗教は前者で、科学は後者だと思うんだがなあ。
        仏教で断定を始めるのは分割と抗争がはじまってから。
        いまでも説明するのがうまい方は断定しません。
        何しろ本家の教祖が「こだわらない」ようにと、
        おっしゃるので、断定しちゃまずいのよ。
        ワタシハ ソンナコト ハイッテナイ

        本の宗教はそれほど詳しくない。けど記憶をたどると、
        少なくとも私が話した人たちに限れば、
        「本に書いてないこと」は断定しなかったと。
        オモイマス

        1. ちょっとだけ、お付き合い。

          私の感覚だと「仏教は宗教ではない」。
          この場合「宗教」は「神霊的なものの存在を現実と同じレベルあるいは現実以上のレベルとして肯定し、その『実在の』神霊の最上位者を知性・理性の究極の源泉として、『何を真理とするか』の体系を構築しているもの」とでも言いましょうか。

          仏教は、西欧的な宗教観で言うと「懐疑論」でしょう。
          「こだわらないように」は、まさにそれですね。
          日常風景として神々がいらっしゃるインド文化の上に成立したので、「宗教」みたいに見えますが。
          「神より仏の方が階梯が上」が、仏教なので。
          「地獄から神々まで」が「在り方として同じ階梯の中の小分類の上下関係」で、「仏」はそこから「在り方としての階梯」を上に行っている。
          ※「存在」と言うと、存在論の領域に踏み込まなければならないので、それを避けて「在り方」と表現してみました。

          脱線
          仏教の哲学としての展開は「何事も断言はできないのだという事を、何とか断言しようと、苦闘している」ようにも思えます。

          ですから「宗教は断定する」と言う場合の「宗教」は主として啓示宗教を意味すると受け取っておいた方が、話がうまくかみ合います。

          1. 端くれの反発は まさにそこに対するものでした。
            「宗教」という文字で示されている端くれが思うものと違うナニカ
            類推すれば「科学」も同様であるはず。
            初期の感触で、議論になりようがないと判断しました。

            だが だから 当然 かくあるべく 「師はきませり」。

            そして今の端くれがあるのです。

          2. 2つの言葉を仮にAとBとする。また二人を、仮にX、Yとする。
            Xは言葉の範囲を広くとる。YのそれはXのそれより小さい。
            XはBはAによっておこると主張する。

            XのAとYのAは同じAで表される。XのBとYのBも同じBで表される。

            Xの主張は常に正しい。Xは自分のAとBを説明しない。
            Yが、対話を始める前に行使する権利。Xが持つそれは、常にXのものである。

            Yはなぜそれを前もって行使するか。Xはなぜ常にその権利を保持するのか。理由はわからない。しかし、YはXに共感できなくなっていく。
            ナニカニ スゴク ニテル

            そしてXは、Yを説得できないことを会得する。
            イマココ 
            タイワヲ モトメル フタリノ アシタハ ドッチダ

        2. 宗教ではなくて信仰と言うべきでしたか。
          とろいやさんの説明どおりです。

          仏教でも浄土真宗などは啓示宗教に近いわけですが、その理由として「宗教がその生まれた地から離れて広がる時、宗教規範がそれを生んだ地政学的な合理的背景から切り離されるため、原理主義化して啓示宗教に向かう」なんていう仮説を持っています。

          1. お待たせしましたmottonさん
            今、mottonさんと私との間に起きている事を私の視点から見るとですが。
            「世界を記述する方法は既に決定されていて、それを復す事はどうあがいても無理だ。
            だから戻ってこい」
            というmottonさんから私へのお誘いであり、私がそれを拒んでいる状態だと私の視点からは解釈しています。

            私の視点では、私は1月9日を契機に私は別の人間になったのであり、もう戻れないし戻りたくありません。

            皆さんの視点から見れば私が社会的にゾンビ化しているように感じられるでしょうが、私から私を見れば、やっと私の恐怖から解放されて、納得していつか必ず私に訪れるであろう死をある程度は楽に乗り越えられるようになれたのです。

            その上で
            >世界が ABCDEF… だった場合に、AACDEF… に見える人や ADCBEF… に見える人がいるというのと、AB だけ見える人や BCDE だけ見える人がいるというのは違うと思います。

            完全に同意します。が。

            「ABCDEF……」と記号で並べると、まるで変化が連続しているように認識に誤謬が生まれますが、実はこの時に脳の解釈の外側で起きている事は
            事実→想像→実現化→事実→想像→実現化→事実→想像→実現化→事実→想像→実現化の「解釈の繰り返し過程」が連続して起きているだけだと私は考えるのです。

            しかし、この時に「事実」と「実現化」の二つの過程は、脳の視点からは同じ事実という認識で統一されていますが、「想像」の過程だけは脳の翻訳の脈絡から外れています。
            想像は与えられた材料から対象を再定義することであり、この瞬間に脳の視点には対象を「主体の利益に寄せるか」「群れの存続という利益の側に寄せるか」という選択肢が生まれると考えます。

            この時にどちらを選択するかは、主体の持つ傾向だけに決定権が存在しているのです。

            ですから、「正しいものの理解へ到達する事はできない」人間の社会では個々人の傾向だけが決定権を握っていると解釈するべきなのです。

            そして、今更ですが、私自身も焦りから誤解をしていました。
            世界を変えるのに賛同や理解を求める必要はないのです。
            出来るだけ多くの人達の頭の中に、変化の種を残せばいいだけなのです。
            他人に変化を強要することは不可能でした。
            私の誤解を謝罪します。

          2. >「世界を記述する方法は既に決定されていて、それを復す事はどうあがいても無理だ。だから戻ってこい」

            そんなことは言っていない。

            こっちも無責任に勝手に解釈してみよう。

            「世界を記述する方法」の意味を「自分の話を他者に伝える方法」と解釈しているのかな?
            もし、そう解釈しているなら「世界を完全に記述する方法なぞ無いが、日本語の話者に伝える方法は既に決定されている」と言えます。はい。「日本語」を使ってください。
            ただし、注射星人さんが使っているものは日本語の方言である「注射星人さん語」です。共通語の「日本語」と乖離があるので翻訳のための辞書が必要です。
            それがないと伝わりません(変化の種も残りません)。
            あと、共通の論理(義務教育で教えられるもの)を用いて伝えてください。(上記のように他人の話を勝手に解釈すると伝わりません。)

            いや、『注射星人さんは(注射星人さん語で)世界を記述できる。しかし「日本語」では不可能なので、「日本語」には翻訳できない。』ということか?「戻れない」の意はそれか。
            それなら、伝えようがありません。注射星人さんはこの世界に影響を及ぼせません。

            いや、待て。とろいやさんが預言者になればいいのか。
            ああ、そういうことなのか。「試そう」とする私や端くれさんが拒絶されるのはそういうことか。

          3. 端くれさん
            私のコメントは無視して直接とろいやさんと対話すればよいでしょう
            なにも物理的にコミニケーションを妨害している訳ではないのですから。

            わたしと端くれさんのコミニケーションを妨げているものが、私の方こそ理解できません。

            端くれさんは私が端くれさんを排除していると感じている。
            しかし、今は端くれさんが私を排除したいと感じているようだ。
            これは二重基準ではないでしょうか。

        3. mottonさん こっちに投下します。
          注射星人さん 多分ディレクトリ構造を会得してないので
          ∧_∧
          ( ´∀`)<ハシクレモー
          ココ ワカリニクイ

          >啓示宗教に近い
          あそこは ほぼ本の宗教W
          無量寿経、その注釈本、その翻訳本、さらにその注釈本。
          教義はそこに書いてあって、
          それを日本語に翻訳した人の弟子たちがあつまって作った。
          アレトカ アレニ ソックリ

          >その理由として
          本家の皆さんが活動の動機としたもの
          それは日本にはないものでした。
          本家の方たちは、それから逃れようとした。
          でも日本には逃れようとしたものがない。
          自分たちの目的を作る必要があった。

          だから 本家とは別のナニカ になる。
          どうしようもなかったんです。多分。

          1. >だから 本家とは別のナニカ になる。

            群れの論理でもそうなのですが、進化論から援用すると、人々の行動パターンは意識的に合理性に従ったものではなく、たまたま環境適応の淘汰圧により残ったその行動パターンが固定された、ということだと思います。

            だから、本家とは別のナニカになるのは、環境適応の結果なので当然であり望ましいことです。
            しかし、受け入れた時に環境適応していた部分(本家から受け継いだ一部のもの)はそのまま受け入れられています。

            ところが、後に環境が変わってしまって、本家から受け継いだ一部が害をなすようになっても、それを変えられないことがあります。特に明文化されている場合においては。
            しかも、受け入れた時に環境適応していて「良いもの」だという共通認識ができているため、逆に『その「良いもの」の実践が完全ではないからだ』という最悪の対応を意識的にとることさえあります。これが原理主義だと思っています。
            # 日本の律令や近代憲法もその一例です。日本における漢字や梵字の神聖性もそう。(まあ、式目や解釈改憲、かな文字などで実害を無くすように適応していくのが、日本社会なのだが。)
            # 朝鮮が原理主義になる理由を考えていたら、こんな仮説に。

          2. >教団の分化の原因をselectionで説明する。
            楽しそうな課題です。しかし。
            日本人とひとまとめにするのは端くれには無理があります。

            ナニカを求めた権力者、ナニカを選択した教祖。
            ナニカを信じた者。教祖と信者を見ていた人々。

            それぞれ複数で環境要因が個々に違う。

            さらに時代ごとに政治と社会はかわる。
            そしてそれらの集合としての日本人となると。

            総合する作業で端くれの能力を超えるのは確実。
            ソンナ アタマ ヨクナイ  ハシクレ ダシ

          3. 日本は比較的に内部で閉じている環境だったので、比較的に(進化論的な意味での)環境適応が容易な傾向があるということで。

          4. やってみます。
            無理に付き合わないでくださいね。
            ルアル ダイジ

          5. 「認識論のすごく深い所」まで潜る作業は、けっこうしんどいので、
            ちょっとの間「宗教教団の分化」をテーマにして、少し考察を楽しんでみましょう。

            もちろん日本にも「原理主義化した宗派」はいろいろ有りますが、
            一般に「啓示宗教」は原理主義化により分化し、
            「多神教」や「無神論・懐疑論」は分化するのではなくて最初から分立していて原理主義化しにくい、という傾向を感じます。

            傾向はすべてを決定するのですwww

          6. その前にこれを一言、説明させてください
            あくまでも「私の理解」ですので、もし間違いや誤用があれば指摘してください。

            フンボルト分類
            世界には「屈折語」「包含語」「孤立語」「膠着語」という四つの言語の分類が存在している。
            ※「屈折語」とは主語や動詞といった語句に、語句の動作そのものを規定する要素が分離できない形で混在している言語。
            ※「膠着語」とは名詞や単語に述語を絡める絡め方を捉える方法によって、「主題が主体」を縦横無尽に表現する言語。
            ※「孤立語」とはひとつひとつの語が、ひとつの概念に対応する言語。
            ※「包含語」とは段落がひとつの纏まった単語のように表現される言語。

          7. 旧プロイセン帝国外交官のヴェルヘルム・フォン・フンボルト博士が提唱した言語類型論。
            これを世界分布に対応させてみる。

            すると、このうちの包含語使いはアイヌ語とインディアンだけという殆ど絶滅危惧種のようなの部類である事が判る。
            更に孤立語使いは殆ど中国だけが使用しているという例外のような部類に属している事が判る。

            すると、世界の主力言語は中国語や英語の屈折語圏と日本語とその他ごく少数(トルコなど)の膠着語圏しか存在していない言語だとザックリ定義する事ができる。
            日本語以外の膠着語圏は従属変数のようなもので四捨五入して再度俯瞰から確認してみると、世界は膠着語を使う日本と屈折語を使うその他の世界に分けられる。
            このフンボルト博士の分類法を使って世界を眺めると、世界には日本とその他の世界だけが存在していると考える事もできる。
            すると、戦後の世界は戦争に勝った世界と戦争に敗北した日本(と欧米と同じ屈折語圏のドイツ)同じ屈折語圏のドイツ)だけしか存在していない状態に分類も可能であるはず。
            宗教分類でも日本だけはその他の世界に属していない。

            そうすると、世界は戦争を終えているのに、日本だけは簡単には戦争を終えられない状態に囲まれており、終戦処理が終えられない状況も見えてくる。
            日本文化圏には、世界で唯一日本だけが存在しているのである。

          8. すいません、またしてもタイプミスを見逃していました。
            >すると、世界の主力言語は中国語や英語の屈折語圏
            正しくは「中国の一部」は屈折語を使用しているです。
            持病により、もう右目の視力が殆ど機能していませんので勘弁してください。

          9. 注射星人さんへ
            説明された「知識」は、すでに「分かって」います。
            そこじゃありません。

            私たちが「問題としているところ」は、その「フンボルト式言語分類」によって説明される「言語の基本構造の差異」が「人間の思考のすべてを【支配】していて、それを克服するのは【不可能】だ」と、なぜ、注射星人さんが考えるのか、なのです。

            その「不可能性」についての捉え方が、
            フンボルトの言語学理論の根底にある「言語が、人間の【世界の原情報を分節化して、認識対象として構成する】ときに、決定的に機能する」という見方に根差しているにしても、
            各言語の差異に「いきなり絶望してしまう」のは「断定が早すぎる」と思いますが。

            注射星人さんの用法だと「フンボルト式分類」は、「言語という事態の、表面的な部分」だと思います。
            つまり「言語の、西欧的定義でいう所の文法、を基準とした西欧的分類」でしか有りません。

            肝腎の話をするには、そこではなくて、その奥にある「言語は、世界認識の形成において、どう機能するか」を考えてみなければなりません。
            そういう訳で「世界の分節化」について、じっくりと話して行きます。

          10. 注射星人さん
            あなたが 端くれと mottonさん とのスレに入ってきたので
            譲ったことにお気づきですか。

            ここは端くれと mottonさんの思考実験の場です。
            そこに師がいらっしゃった。とても楽しい対話になりそうでした。

            いま端くれは
            本家から 原理主義的な闘争が始まるあたりまで
            教義が変化していく要因を列挙したところでした。

            言語にかかわる要因はいくつか存在します。
            サンスクリットとパーリと漢文の構造の違い、
            漢文と日本語の違いは何らかの影響があったでしょう。
            端くれは主たる原因ではないと考えます。
            この思考実験ではおそらく話題にならない。

            aとbのどちらが因でどちらが縁であるか
            判別は容易なことではありません。
            でもいまのあなたは因と縁を区別することができません。
            自分を守るために区別しない。
            全てはあなたの直感通りなのですから
            要因に言語が含まれている以上
            言語が変遷を支配しているという結論になります。

            どう見てもあなたの勝ちです。
            本当にありがとうございました。

            師匠 本文はまだできていません。
            いつできるかわからないくらいには
            興ざめしました。とりあえず報告まで。

          11. 端くれさんへ

            興醒めしたところで、少し気を取り直すために、暇が有って気が向いたら、次の本を読んでみてください。
            神保町へ行けば有ると思います。その辺りのブックオフに有ればめっけもの。
            石飛道子先生の
            「ブッダと龍樹の論理学」サンガ文庫
            「ブッダ論理学五つの難問」講談社選書メチエ

            仏教の「論理学としての側面」が、どのように「西欧発祥の論理学」と違うのか。
            面白いです。
            言語構造も関連してきます。

          12. 皆さん、貴重なご指摘をありがとうございます。

            とろいやさん
            >私たちが「問題としているのは〜中略〜それを克服するのは【不可能】だ」と、なぜ、注射星人さんが考えるのか、なのです。
            端くれさん
            >aとbのどちらが因でどちらが縁であるか
            判別は容易なことではありません。

            端くれさんのご指摘は「鶏が先か卵が先か」という究極のパラドックスへ収斂していくものと考えます。
            私の理解を先に述べておきますと、鶏と卵はセットなのです。
            どちらかが必ず先である必要はないはずです。

            環境が個体の鋳型となり、個体は個体で環境へ融合しようとする。進化と退化は同じ系の中で同時に起きているはず。
            ウイルスなどの閉じた系の中では変化の速度は約一万倍にも達する(ソースは栗本慎一郎氏の「パンツを脱いだ猿」)ミッシングリンクなど希少過ぎて容易に見つかるはずもない。
            では、なぜどちらかが絶対に先になるはずだと考えてしまうのか。それは人間の頭が相対的利益の計算によって常に支配されているからだと私は考えます。

            この場でとろいやさんのご指摘に私が答えても「一文無しが富豪になる方法を語るようなもの」で、無自覚にシカトが発生して私のコメントは斜め読みされてしまうだけでしょう。

            ですから高い信頼を得ているとろいやさんの「四回目」とそれ以降の存在がこの局面では重要になってくると思うのです。

          13. 了解です おさらいしときます。
            中1まで戻って数1AまでW
            ナンネン マエダヨ コレ

            あっちはやってないんです。

            経は楽しいけど、論は。
            きついというか
            あまり必要ないというか
            その域にないというか
            ウマク イエナイ

            いままでやらない理由を説明することはなかった。

            もう少しヒントが来ると説明できるようにw

          14. 注射星人さん
            気が付きませんか。

            あなたが私を説得するためにその例を使っていることが
            因と縁が理解できていないことの証拠になります。

            さらに
            端くれは「因と縁をその例のように理解している」
            と決めつけて説得しようとする。

            また  断定したのです。

            端くれは経験によって知る。
            あなたは 断定する人である。ことを。

          15. 注射星人さん

            別のスレッドを作ってください。
            ヒトの会話に割り込んでこないでください。
            せめて許可を得てください。

            無理な注文だろうとは思います。
            そういうことを拒否してるか
            その手の構造を理解してないか
            どちらかはまだ判断できない。

            でもやらないのは知ってる。
            シッテタ ヤッパリ キタ

          16. 端くれさん
            貴方は自分の矜恃により、私のコメントを無視できないでしょう。

            それは理解しますし、その上で述べておきたい。
            そんなに私のコメントの方なのか、私の存在そのものなの方のかは知りませんが、排除をしたいのであれば議論エントリー1か2へ議題ごと移動するばよかったのではないでしょうか。
            それでも私が理解者を求めて別の板へ移動してまですがるようなら、その行動は「味方が誰もいなくなる」という私の目的へのダメージになるのですから。

            「人の話に割ってくるな」という貴方の論理武装は全ての場と権利は所有によって分割されるという発想であり、それは資本主義社会では権威そのものが資本化している事を受け入れるという事であり、権威が金になる社会であれば、社会的資本の格差は拡大するばかりです。
            権威が貧弱な人の周りには、資本となる権利が集まり難くなって、自己への矯正を求めざるを得なくなり、有名である事が資本化していれば、衆目が資本化して目立つ事が金を生む社会になり有名である事が貴族化して、ブルボン卿化していくのですから、全体としてはそんな社会は全体が貧困化に収斂していくのは、やがては人権のデフレスパイラルへ転落していくのですから当たり前のことですよね。

            今の貴方の眼には私が無自覚な人格障害者に映っているごとでしょう。
            逆に私からは、世界全体が不条理や理不尽を受け入れることで僅かな平穏を手にしているように見受けられます。
            私には端くれさんが自らの義憤により、やがてその理不尽から眼を背けられなくなる未来が予測できてしまいます。

          17. おねがいだからディレクトリの構造を理解してください。

            注射星人さんは
            「端くれは議題エントリー1へ行くべきだった」
            と書きました。この事実から、注射星人さんは
            「エントリー2を一つのスレッドとして理解してる」
            ということがわかります。
            エントリー2は構造を持っています。
            トーナメント表を上から順に下りてくるイメージです。
            コメントからトピックが枝分かれしています。

            この手のサイトでは
            そうやってスレッドが分かれていきます。
            そのための返信ボタンです。
            連続するコメントの何番目の返信ボタンを押すか
            それがスレッドの選択です。

            枝分かれした段階でトピックは分化し、
            別のスレッドになります。
            注射星人さんは枝を区別していない。
            前のトピックのコメントに答えずすべて途中で放棄した。
            放棄した意識はないかもしれない、でも
            次々に別の枝に移動し、別のトピックにコメントする。
            ディレクトリの階層構造、スレッドとトピックの関係、
            トピックの変化、一切を無視する。

            構造を理解できないのか、会話を横取りしたいのか、
            そこまではわかりません。悪意じゃないとも思います。
            でも無視しているのは事実です。
            注射星人さんには
            「全部のコメントが一つのトピックに見えている」
            何度も同じ行動を繰り返した。だからわかるのです。

            このスレッドでこれからする会話には言語は関係が薄い。
            対話する本人にはそれがわかっています。
            そこにあなたの言語の解説が入ってきた。
            あなたの最初の主張と、別のトピックなのに。
            無理に言語の解説を割り込ませないでください。
            せめて会話を読んでから
            関係あることを確かめてからレスを入れてください。

            でも端くれは
            あなたが自分の主張を差し込んでくることを知っていた。
            今までのあなたのレスで知ったのです。
            納得できない理論で自分の主張が正しいことを説明する。
            このエントリーのあなたのコメントを読んで知ったことです。

            だからお願いした。途中で邪魔されたくない。
            関係が薄いことをあなたに説明したくない。
            説明しても受け入れてもらえない。

            言語について話したければ
            スレッドを立てればいいのです。
            スレッドはエントリー1でなくここです。
            そこであなたが師匠と話すのは自由。
            私は邪魔しないでしょう。でも見ています。
            師とあなたの会話を見たい。邪魔はしない
            そういったはずです。だから排除するはずがない。
            矜持など関係ない。

            また 断定。いや予言もですね。
            根拠を説明してください。
            ああ。そんなことはしないのでしたね。
            でも勝手に決めないでください。はずれです。

          18. >「屈折語」「包含語」「孤立語」「膠着語」

            うーん。このレベルだとちょっと。

            とりあえず、
            ttps://ja.wikipedia.org/wiki/総合的言語
            ttps://ja.wikipedia.org/wiki/分析的言語
            でも読もう。
            総合的か分析的かというのは言語が持つ傾向であって完全に分けられるものではないし変わっていく。
            ttps://ja.wikipedia.org/wiki/総合的言語#例

            一般に、大規模に使われると(異文化間での共通言語にになると)簡略化が進み総合的性格が失われる。書き言葉の存在もその要因の一つかもしれない。
            古代中国語ではこれが起こったとされる。印欧語でも大規模な言語圏をもつものほど分析的(孤立語的)であり英語がその代表例。逆に、極度に総合的である抱合語は少数民族にしか残っていない。
            一方で、文化の統合が進むと総合的性格が進むと思われる。現代中国語ではこれが起こっている。日本語も典型的な膠着語よりも総合的性格が強い。

            こういうの、面白いと思うがなあ。フンボルトで止まるとつまらないと思うがなあ。

  7. 実習。

    端くれさん
    私のコメントは無視して直接とろいやさんと対話すればよいでしょう
    なにも物理的にコミニケーションを妨害している訳ではないのですから。

    わたしと端くれさんのコミニケーションを妨げているものが、私の方こそ理解できません。

    端くれさんは私が端くれさんを排除していると感じている。
    しかし、今は端くれさんが私を排除したいと感じているようだ。
    これは二重基準ではないでしょうか。

    このコメントは
    私との対話だから あそこではない。

    今は新たなトピックとしてスレッドを作ります。
    返信ボタンは使わない。コメントを残す。です。

    1. 今度は返信ボタンでレスしました。
      少し右にずれます。

      返信ボタンがなくなるまで返信ボタンでレスします。
      二重基準という用語を選択していることが問題です
      しかしそれは今回は置いときます。

      >今は端くれさんが私を排除したいと感じている
      端くれは排除したい、ではなく、排除したのです。
      あのスレッドではあなたは排除された。
      あのトピックにあなたの説が邪魔だから。
      師もそう感じ、私は共感し行動した。
      あなたが自説を主張すると端くれが困るから。

      しかし端くれは排除しない。
      師が準備しているあなたとの会話をみたい。
      さらにあなたを排除したトピックは
      別のトピックに派生することが予想できる。
      そこでは言語の違いが重要かもしれない。
      だから排除しない。

      排除したが排除してない。でも

      階層構造のどこにあるかが排除と許容を決定する。
      それは構造を理解しなければわからない。

    2. トピック分けます
      端くれ@注射星人 に返信しています
      それぞれにレス入れてみてください。

      私のコメントは無視して直接とろいやさんと対話すればよいでしょう
      なにも物理的にコミニケーションを妨害している訳ではないのですから。

      あなたがコメントをすることで心理的に端くれがダメージを受けるからです。
      感情は思考を鈍らせます。おそらく師からはきつい課題が出ることが予想できます。こなせなくなるのは明らかです。

      あのコメントみると感情の乱れが表れます。
      どう見ても落第です。ありがとうございました。

      これがトピックの分化とスレッドの分岐です。

  8. さて「人は世界をどのように認識するのか」の4回目です。
    このテーマは「世界認識が形成されるときに、言語と論理は、どう働くか」でも有ります。

    一般に、人間の知的機能は、
    「知覚」⇒「表象」⇒「概念」⇒「論理」⇒「言語」の順番で成り立っていて、概念ができた段階で「世界認識」が成立した、と思われているのではないでしょうか。
    これは「間違い」とまでは言いませんが、正確ではないと、私は思うようになりました。

    まず「知覚」と「表象」が、「順番に」では無くて、同時に為されている、と思われます。

    生理現象としては「順番に」なのですが、人間の知性は「それを、同時に、としか自覚できない」からです。
    しかも、それと「自覚の上では同時に」、概念の形成と論理体系化と言語化がなされる。そうとしか思えません。

    ただし、ここで言う「概念の形成」「論理体系化」「言語化」は、一般に言うそれらではなく、その「原初的形態」です。
    唯識論で言う所の「末那識」か「阿頼耶識」の段階で、そういう事態が起こっているのではないかと、私は思うのですが。

    多分、それは「生の知覚」や「表象」と、区別できません。
    「分析すると、そうかもしれない」という程度。
    ゆえに「同時に起きているとしか自覚できない」と表現しました。

    これについて、こういう喩えを考えつきました。
    「最初、思考のための大雑把なフレームが形成される」。
    大雑把なので「情報交換によって、簡単に【微調整】が可能で、その共有も簡単」。

    つまり、何が言いたいかというと、この「大雑把なフレーム段階」の「論理」や「言語」は、知性を持つモノで有れば「共有可能」だろう、という事です。
    つまり「【基礎レベルの原初的論理】は、【高次段階言語】に完全には支配されない」。

    高次元に達した言語は「認識の共有の歴史の結果」ですので、必ず「その集団が共有している認識の偏り=文化バイアス」を含んでいます。
    そして、高次元論理は、高次元言語に支配されています。この意味の論理と言語は「思考全体を各集団に特異なものに変化させる方向に、相互に支配し合っている」と言った方が正確でしょう。
    ※ここで言う「高次元」とは「原初的ではない」という意味。

    対して「原初的論理」と「原初的言語」は、相互の結びつきは強力ですが、共に「極めて単純」なので、互いに「思考全体を、特異なものに変化させるようには拘束し合わない」のです。
    むしろ「思考のフレームを【多くの他者との思考の共有が可能な方向に固定させよう】と、拘束し合う」のです。

    1. 次回は、この「原初的な」知覚・表象が、どういうものであると想定できるのか、その際に「原初的な」概念・論理・言語が、どう働くのかを、考察してみます。

      この「知性の働き」は「原初的なレベル」から「極めて高次元のレベル」まで、何段階にもわたって、しかも段階を超えて相互に影響し合って、数えきれないほどの「作動」と「修正」を繰り返して成り立っているのだと思います。

      量子コンピュータとしての人間の精神の働き方を、ある程度解明できれば、この「仕事」の量が推定できるでしょうが、ものすごく膨大な数字になると想像しています。

      1. mottonさんへ
        ありがとうございます、それでは今後は「高水準」という用語を使うことにします。

        私は数学オンチで、「形式論理学」の代数的構造がきちんと理解できているとは、自分でも思えません。
        「数式化」が施されると、その分野に対して「理性が働かなく」なる…というより「見えなく」なります。
        精密に「言語化」し直さないと、何が何だか分からなくなるのですよ。微分積分と集合論ぐらいしか「言語化」に成功しませんでした。

        ですから、論理についての私のいろんな考察に妥当性が生じたとしても、それは「言語論理」止まりです。
        数理的な部分については、
        「視力の悪い人」が「遠くから眺めた景色についての感想」を述べているものとして、以下、お付き合いください。

    2. 「高次元」より「高水準」または「高級」が良いかと。
      プログラミング言語において、記述の抽象度が高い言語のことを高水準言語(高級言語)と言いますので。

      自然言語を(プログラミング言語のような)形式言語のモデルにあてはめて分析するのも面白いかと思います。自然言語が話者間の対話を基本とするのであるのに対し、形式言語は必ずしもそうではないという違いはありますが。

      # 一時期、プログラミング言語にハマっていました。ラムダ計算とか、SKIコンビネータとか、チャーチ数とかの沼にまで。
      # 一個のコンビネータ(関数)と関数適用という一個の論理だけ(すなわち2種類の記号=概念だけ)で、自然数や演算や分岐などを定義してチューリング完全な体系が作れるんですよ。

      1. mottonさん
        プログラミング言語のアナロジーを導入いただきありがとうございます。おかげでとろいやさんのお話の理解が進みました。「遠くから眺め」ています。
        ロウガンキョウ カナ

      2. 高級脂肪酸配合の高級品とか。
        カンケイ ナイカ

        「薄さ〇㎝」が気持ちが悪い。
        でも誰にも共感してもらえないです。
        最近はだいぶ麻痺してきたけど。
        トシ カナ 

  9. 「人は世界をどのように認識するのか」第5回。

    けっこう間が空いてしまいました。
    論理学と言語学の本を、ちょっと読み返していたので。
    今日は、「とても原初的な話」をしてみます。

    人が「世界を認識する」ための第一歩は「周囲を視る」事です。
    ※視覚障碍者は別ですが、それについては「目の見えない人は世界をどう【見ている】のか」という面白そうな論考がありますが。
    実は、未読です。近いうちに読みたい。

    まず「生の光学的情報」が「意識にインプットされる」つまり「視覚という知覚が生ずる」わけですが、
    この「知覚」を、どのように「処理」するのか。
    私たちの「意識」は、それを「あれ」と「これ」に「分ける」のです。脳というコンピュータが働いて。
    これは「意識」というより「無意識」の領域です。
    ですから、ここでいう「意識」は、表層意識から深層意識までを含む「最広義の意識」です。

    周囲の光景が「三次元映像=見えるもの」となって映る、それが連続して、実は「四次元映像」が意識内に形成されます。
    で、その映像を、意識は「分節」します。

    「近いもの」と「遠くのもの」に、
    「自分の体」と「そうでないもの」に、
    「明るいもの」と「暗いもの」に、
    「続いているもの」と「途切れているもの」に、
    「先ほどまで有ったもの」と「まだ有るもの」に、
    そういう「無意識の操作」を「無限に近いぐらい」重ねて、
    始めて「世界を視る」のです。
    このように「世界を分節して、映像として構成する」事によって、「モノの区別」が発生します。

    「あれ」と「これ」は違う。
    これが「論理の第一歩」です。
    「あれ」と「これ」と「それ」は、どう違うか。
    これが「二歩目」です。
    「ものは、いくつに分けられるか」
    これが「三歩目」です。
    と、言っても「同時に」起こります。
    2が「比較」、3が「計数」。

    人の理性は、世界を「区別」し、区別された「ある部分」と「それとは別の部分」を「比較」し、「部分がいくつ有るか」を数えます。
    計数の最初は、比較の結果の「似たような部分」を「抽象化」して「同じようなモノがいくつあるか」を数えるのです。

    この「論理の原初」は、人の理性に共通します。
    と言うか、多分「知的意識体」であれば、共通します。
    そして「どのように区別するか」を「他の知性体」と情報交換して「論理形式」を共有するのです。

    「どのように区別するか」は「生理的バイアス」に依拠しますが、
    ①【「区別する」と「比較する」と「数える」】
    これは、同じ論理形式ですので、知性が有れば共有できます。

    A「ここから、ここまでを、区別して『1』とする」
    B「ここから、ここまでを、区別して『1』とする」
    ※【これに関する情報交換が「原初的コミュニケーション」つまり「言語の基礎」】

    知性を持つ者同士なら、①の段階では「バイアスによる理解不能」は生じません。
    コミュニケーションの段階に至って「ここから、ここまで」が、ずいぶん違う場合には、互いに驚くかも知れませんが。

    そして、①の次に②「自分の中で、①の結果を、どう整理するか」という操作が「言語的に」行われます。
    ①とこの②が連結して「表象」が成立します。
    この段階では「言語」は「自己との対話」です。
    とは言っても、実際には「言語そのもの」が「外界からの情報インプット」によって形成されるので、次の次のまた次の段階ぐらいまでは「同時に」と言うか、多段階を「行ったり来たりして」総合的な現象として「表象」が、生じます。

    この「多段階を行ったり来たりして、現象として生じる」のは、知性のあらゆる働きが、そういう風に成り立っています。
    「物質としての存在」も、多分、そうでしょうね。

    1. もう少し細かく行きませんか。(知性とは何かの問題に関わるので。)

      記憶能力を持たない生物でも知覚はあります。記憶に基づくかどうかで認識と反応を分けられるはずです。

      1-a. 記憶に基づかない認識。視覚だと三原色や明度、味覚なら五味そのもの。生物が持つ物理的化学的機能に依存する。
      1-b. 記憶に基づく認識。味覚なら風味(レモンとライムの味は違う)。視覚はこれのお化け。

      次に認識によって引き起こされる反応も

      2-a. 記憶に基づかない反応。例えば、異性や獲物を認識した時。(好ましいかどうかは次の2-b)
      2-b. 記憶に基づく反応。例えば、ピクトグラム(絵文字)。自然言語に基づくものも含む。

      1-a, 2-a はどんな生物でもできますが、1-b, 2-b は記憶能力を持つ生物だけです。例えば魚はできます。
      後者はパターンによる認識・反応なので「行ったり来たりする」「自己との対話」です。知性とは記憶に基づく認識・反応の集積なのかもしれません。(AI はその方向で発展していますしね。)

      # とろいやさんが参考にした書物は欧米のものではありませんか?欧米では自然言語(を使う人という存在)を重要視しすぎる傾向がある気がするのです。(ピクトグラムを多用し始めたのは日本だったりする。)背景に「神との対話」があると見るのは穿ちすぎでしょうか。

    2. そうですね、さらに細かくできそうです。
      もっと深いところまで潜ってみましょう。

      で、参考にした本は、日本の学者の本です。
      ついでに、紹介しておきましょう(敬称略)。
      井筒俊彦「意識の形而上学」
      大森荘蔵「思考と論理」
      丸山圭三郎「言葉とは何か」
      吉田夏彦「論理と哲学の世界」
      石飛道子「ブッダと龍樹の論理学」

      熟読すると何年もかかるから、全部流し読みですが。
      どの本も、「書いてあることを鵜呑みにせず、先生に反論するつもり」で読みます。
      そうじゃないと「自分の思想」を形成するための「養分」になりませんから。
      これを20代の頃に、しておきたかったですね。
      法律の勉強だと、どうしても「鵜呑みにするしかないところ」が多いですから、面白くなかったですよ。

  10. さて【「中華帝国主義」と「朝鮮論法」は違う】というお話。
    ついでに「日本式」や「人類標準A」「人類標準B」と、どのように違うのか。

    事例を「富の分配」にしてみましょう。
    キーワードは「平等」です。

    人類標準Aは「差別はいけない、平等が理想」です。
    その裏には、人類標準B「差別はしょうがない」が有ります。

    例えば「10の富を、どう分けるか?」
    「人類標準B」でも、理念としては「なるべく平等に」ですが、実際の社会状況は「甲に10、乙は0」でした。
    理由が有ります。分け合う余裕が無いから、です。
    で、配分において差別される理由がいろいろと「合理的に」設定されます(例えば「甲集団と乙集団が争って、甲が勝ったから)。
    「差別」は「甲と乙が比較された結果」。
    ここから「人類標準A」と「中華型」へと進化します。

    1「人類標準A」では「可能ならば5:5で」という理念が共有されるようになります。富が豊かになって、分け合う余裕ができると、そうなります。
    で「なるべく平等に」という理念に反する事態を「差別」と捉えます。しかし「本当の平等」は、なかなか実現しません。
    人類標準Aでは、この「差別が解消されない事態」を「理念に反している」と捉えます。

    ※日本式は、ちょっと特殊で、かなり早い段階から「5:5が常識」なのです。縄文時代の豊かさが「富を奪い合う必要の無い状況をもたらしたから」ではないかと想像されます。
    ところが「農耕社会の原理」が導入されて、人類標準Bに「汚染」されました。以降、他と同じような道筋を。

    2「朝鮮」では、「甲に10」が当然となりました。
    乙は、そもそも「比較の対象にならない」のです。
    「甲と乙は比較されない」ので「差別ですらない」。
    「なるべく平等に」が、完全に消えてしまいました。
    《「甲であるか、乙であるか」がすべてを決める》のが「理念」に化けてしまったのです。

    3「中華」は、人類標準Bと朝鮮型が混在した状況です。

    さて、では例えば「アメリカの奴隷制」や「インドのカースト」は、どこに入るのか?
    多分「人類標準B」の「進化した形」だと思います。
    なぜかと言うと「甲と乙の比較」の結果だから、です。
    どちらも「甲は優等、乙は劣等」です。

    「朝鮮型」の特徴は「甲か乙か」だけ、それ以外に分岐点が無い事。そして「乙」になると「人間では無くなる事」です。
    乙は「劣等人種」ではなくて「人間ではない」のです。

    中華型には、この「朝鮮的要素」が有ります、濃厚に。
    しかし「朝鮮型」ほど純化していないのです。

    1. よく見ると、
      「富の分配」と「平等」と「差別」と「身分」が、ごっちゃになってて、穴だらけの議論ですね。

      どなたでも、遠慮なく、ツッコんでください。

      酔いが回ってきて、眠たくなって来た…日本酒2合の後、ウィスキーをダブルで、3杯目は、呑みすぎだったかなあ…

    2. 生物の絶対的標準「俺の遺伝子を残す」
      →「俺が10。他の奴=敵は0」

      社会性生物標準「群れ=自身と子孫を守り合う仲間」
      →「仲間で10。敵は0。仲間も生かす(富の分配)」
      ※ 人類においては、仲間だけが「人間」であり、敵は「人間ではない」。

      群れの内部において、「俺の遺伝子を残す」ためには富を仲間より得る必要がある。特に貧しい地域では必須。
      →富の分配権(支配権)を得るための競争が起こる。
      →勝者と敗者で差別(身分制度)

      しかし、富の分配が酷く不公平(酷い「差別」)
      →被差別側は群れに留まるメリットがなくなる
      →仲間が敵になり、社会(群れ)が分裂し衰退
      →分裂を防ぐためには富の分配を公平にすればいいが、ある程度までは身分制度で縛ることによる分断統治も有効。
      ※ 朝鮮は宗主国の保障により富の分配が酷くても社会が分裂しない特殊ケース(内部にナムを抱えてゆるやかに衰退するだけ)。

      一方、富の分配が公平(それでも「俺の遺伝子を残す」ことができるくらい十分に豊か)
      → 群れが分権的 (支配者が不在)→「外敵」に対して脆い。
      →「外敵」が常に存在する場合、集権的である必要がある。
      ※「外敵」の有無が日本と中華に代表されるユーラシアの違い(日本が特殊ケース)

      まとめ
      「平等」=富の分配が公平。十分に豊かであることが大前提。社会の発展は推進。分権社会であり「外敵」に対して脆い。
      「差別」=富の分配が不公平。貧しい場合は必然。社会の発展は停滞。集権社会であり「外敵」に対して強い。

      このバランス。その選択が合理的なら栄えるし、非合理的なら衰退して滅ぶか外敵に滅ぼされる。理念は後付けで、栄えたものが「良い」とされる。

      そして、「国民」という共同幻想を使って「平等」なのに「外敵」に対して強い群れを作ったのが近代国民国家。
      生物の絶対的標準「俺の遺伝子を残す」に従わない「真社会性」を持ったのかも。

      1. >生物の絶対的標準「俺の遺伝子を残す」
        これは本能ですね。
        その本能が壊れてきているのがヒトだ思います。
        その本能が壊れた野生動物は、エラーにより一定数生まれますが、子孫を残せず、その遺伝子は都度、抹消されます。ヒトの場合、かつては社会的にも消されていました。しかし、技術/変なシステム(後宮とか)/権利意識などをつくったいまのヒトは、その本能が壊れた遺伝子を増大させています。

    3. mottonさん、ツッコミありがとうございます。
      なるほど「生物の社会性」を入れると、様相が見通しやすくなりますね。

      「富の分配」というキーワードを使うなら、基準点はそこになりますね、納得しました。

      それで、その「富」について、考え直してみたのですよ。
      「富の相対性」について。
      「A・ある地域にどれだけの富が有るか:B・富を求める者の絶対数」
      この数値が重要なのだと、思いつきました。

      日本列島が縄文時代に豊かだったのは、Aが大きい割にBが小さかったからです。
      逆に、朝鮮半島の貧しさとは、《Aがそこそこ大きいのだけれども「Bが大きすぎる」という状態が慢性化していたから》だと思われます。

      なぜ半島がそうなったか、というと、隣の大陸が「そういう状態」だったから。
      玉突き現象だと思います。
      文明が「富」を産み出すようになると、必然的に、これが起こるようです。

      ある地域で「富を生むシステム」が成立すると、周辺の集団が富を求めて集まって来ます。で、Aは相当に大きいのだけれども、Bが大きくなって、Aの許容量を超える。
      で、A:Bの数値が、健全なレベルでいられなくなる。
      Aは不安定だから、という要素も有ります。
      古代文明は、すべて、この道筋をたどっています。
      それも「変奏曲」を織りなして、現代まで。
      大陸では、今も、この構造が続いている訳です。

      島国が幸運なのは、大陸のそういう構造に「包含」され尽くしてしまわないでいられる事でした。人の営為が「グローバル」になって、その「島国の幸運」が無効になりつつあるのが「現代」です。

      前に「文明の尺度としての豊かさ」みたいな話をしていて、これに気付きかけた記憶がありますが、今に至って「明確にそうである」と分かりました。

      ただし朝鮮半島は「特殊」です。
      Aを大きくする営為を否定する方向に「文化バイアス」が固定しました。よって「A:B」の数値は「より悪くなる」訳です。

      1. 全然次元の異なる話ですが。
        学生時代に西南アジア史の講義の中で、古代メソポタミアの麦の収量は化学肥料を使用する現代に匹敵するほど高く(確か50倍?)、その肥沃さが文明を生んだというお話でした。
        それに対して、中世ヨーロッパの収量はわずか2倍(種もみが別だとしても3倍)、収量を上げるには深耕するしかなく、そのために労働集約を目的とした農奴制が必要であったと。
        一方の日本です。古代、条件の良い口分田の場合は米の収量は実に60倍。この収量の高さから日本では小規模の農家でも自分が食うには困らなかったという内容の話がありました。

        朝鮮半島の場合、米が採れるのは主に南部に限られ、しかも陸稲なのか恐ろしく収量が低かったと言うことです。
        もちろん李朝では施肥もせず天水農業が主流だったと言いますから、こういった作物や環境というものの影響も大きかったのでは。

        1. 人口は国力と労働力であり、人口は食糧生産力によって決まるってことですな。食糧生産力を人口が上回ると、飢える。それが嫌なら、あるいは他から奪おうと対外戦争勃発。国内で処理すると反乱や政変かな。

          以下小噺。――両足羊の怪

          中華「飢えた時の非常食。両足羊アル。中華の隣の半島で採れたものアル」
          両足羊「ニダぁ~、ニダぁ~」

          日本「いやぁ‥‥‥、共食いはちょっと……」
          中華「大丈夫アル。ヒトモドキとも呼ばれてる通り、ヒトに似て、その実違う生き物アル。意思の疎通も不可能アル。後頭部の肉が特に鍛えられてて美味アル。食べるヨロシ」
          日本「それでもお腹壊しそうなんで。やっぱり遠慮します」
          中華「何アルかっ!? 我の料理が食えないアル!? もういいアル! 我一人で食べるアル」

          モグモグ

          中華「……あれ? おかしい二d――アル。ワレのドジョウひげが無くなって鰓が張ってきた――ニダ。――ウリはどうしてしまったニダ? ああ、むしょうにキムチが食べたいニダぁ」

          両足羊(――ホルホルホルホルホルホルホルホルホルホルホルホルホルホル。ウリを食べた者はウリになるニダぁ)

          日本「ひぃぃぃぃぃ!」

          両足羊(チョッパリ! お前もウリを食べるニダぁ!)

          日本「く、来るなぁ! バケモノォ!」

      2. キサラギ=アリスさんと、五寸釘さんへ
        レスありがとうございます。

        大陸の非情な構造とは「人口が流動する事」です。
        「富」が発生すると、周辺の部族が、それを「略奪」しに行きます。流民も発生します。
        これは巨視的に見ると「特定の地域が、多数の人口を養わなければならない」という事になります。
        略奪者や流民が増加すると、富が絶対的に不足します。

        島国や山間部は、その構造に組み込まれないで済むので「幸運」なのですよ。(過去形)。

      3. >「A・ある地域にどれだけの富が有るか:B・富を求める者の絶対数」

        これ、生物界だと一定値に漸近していくはずです。
        A はほぼ食料なわけで限界があるため「A で養える限界まで B が増える」ので。
        例えば、日本の江戸時代の中期~後期は人口約3000万人で一定です。

        そして、山海により閉じている世界で何が起こるかというと「辺境は常に貧しく飢えている」ということが起こります。Aにはムラがありますが、Bの増加率は貧富でそれほど変わらないので、Aが相対的に少ない貧しい地域(=辺境)は常に飢えています。
        結果、辺境の余剰人口がAが相対的に多い豊かな地域(=中央)に移住する(例えば上京して就職する)ということが起こります。
        生物界だとそれで均されて終わりですが、人間界だと人材が集中する豊かな地域がさらに発展して格差が広がるということが起こります。

        辺境の貧しさを解決できるのは、高度成長(Aの成長速度がBのそれを常に上回る)か人口制限(Aに対応してBを調整する)だけです。
        高度成長には、生産力向上(作物や技術の改良、インフラの整備など)だけではなく、辺境の開拓・植民地獲得でも可能です。だから、新国家が誕生して社会が安定する(Bが増え始める)と拡張主義に向かいます。

        さて、朝鮮は中華の辺境です。内部で高度成長・人口制限できないなら、余剰人口が中華に移住すべきです。
        しかし、朝鮮は中華との国境を人・物・金の全ての面で閉ざしていました。これは体制保障を中華に依存しながら、中華に完全には吸収されないための防衛策でした(高麗後期を除き北朝鮮に至るまで同じ)。そのため、中華への移住もできず、中華の高度成長の恩恵も受けられず、貧しいままでした。「商」人の国・中華の一部でありながら、朝鮮の貨幣経済は未発達だったのです。
        (1965年までの韓国もそう。「辺境」が「中央」と繋がりを断つとそうなるだけのこと。)

        上記の「辺境」とはちょっと違う意味ですが、「辺境」については、以下のブログが(10年前に休止していますが)面白かったです。
        ttps://blog.goo.ne.jp/william1787
        「北海道論」や ttps://blog.goo.ne.jp/william1787/3 の「Imperium In Imperio」およびリンク先のエントリ

    4. mottonさんが提示してくれた図式で言うと、
      人間は「動物より愚か」なので、
      「その地域で人を養える富の数値」と「その地域に実際に集中する人口」のバランスが、簡単に崩れるのです。

      一つは「略奪者や流民の流入」によって、「人口」が増える。
      もう一つは「富を生み出すシステムの不具合(天災とか戦争とか土地の疲弊とか)」によって、「富」が不足する。

      1. バランスが崩れると飢えて死ぬのでリバランスします。それはそれでよく、「富」の絶対的な不足の問題ではないと思います。

        日本のように閉じた環境だと内的要因だけで「徐々に」崩れるのでリバランスも楽です。(勝手にそうなるので分権的でよい。)

        大陸の場合、気候変動で内陸部の遊牧民がまず厳しくなり、彼らが周辺の帝国に略奪に向かい、その混乱下で「一気に」バランスが崩れます。(混乱を抑えるためにも再構築するにも集権的な帝国が必要。)

        「徐々に」か「一気に」かの経時的変化の速度の問題です。
        理想主義者は定常状態をまず考えるので、この問題が比較的抜けるんですよね。
        「断交!」「どうやるん?」

        1. >バランスが崩れると飢えて死ぬのでリバランスします。それはそれでよく、「富」の絶対的な不足の問題ではないと思います。

          いくさ(何らかの闘争)を選択した場合でも死にますな。
          勝っても負けてもそれは変わらない。
          勝った方が人死にが少なく、負けた方が多く死ぬことになる。
          結果として人が死んだので、人口は適正値に落ち着く。
          うーん、自然ってよくできてますね。

    5. え~~と「富の分配」の話でした。

      端的に言いますと、他の人類社会では「富をどう分配するか」が「問題になる」のです。
      朝鮮では「問題にならない」。

      中華が特殊化したのが朝鮮です。
      中華では「常に富とそれを求める者とのバランス」が崩れていて、「富は皇帝が独占し、仁君の威徳によって、下々に分け与えられる」という建前で処理されるようになりました。
      あくまでも「建前」です。
      本当は「有力集団の力関係」が「皇帝の差配」を左右します。

      バランスが崩れているのが常態化しているので、分配の実務が「無慈悲」になりがちです。
      1億人ぐらい餓死しても、権力者は気にしません。
      歴史をいじって「そんな事件は無かった」とすればいいので。

      また無慈悲にならないと、いつ「足りなくなる」か、分からない。
      膨大な「身内」を養わないと、権力者たちは「人間」でいられなくなるからです。「人間」でいられなくなると「身内に寝首をかかれる」から。
      ゆえに「際限なく富を独占しようとするいくつかの有力者集団」が「常に」権力闘争を繰り広げます。

      これは「満ち足りた時」の非常な豊かさが、「富に養われる者の数」を他の文明圏に比べて極めて大きくさせ、
      一方で「足りない時」の「社会全体としての対策」が成立しないから、です。

      満ち足りた時の生産力が、膨大な人口を養い、
      足りなくなった時に、助け合わない社会構造。
      これが「中華」です。
      足りるときは「富の再配置によって発生する利益を追う」ので「富の分配」という考え方に似たモノが成立します。
      実際は「独占した富の形態を変化させようとする思想」です。
      本来の「共存する方が互いに利益である」という思想からの「分配」ではありません。

      で、朝鮮は「中華の構造」をカリカチュアにしたもの。
      中華の構造から「満ち足りた時」を抜きましょう。
      中華からはじき出された者が集まるので、それなりの人口が常にいる。なのに生産力は常に不足している。
      こうして「朝鮮」ができます。
      分配しようにも「富」が絶対的に慢性的に不足している。

      環境要因は、このように出来上がりました。
      それが「文化」を決定します。
      で、出来上がった「文化」が、基本的な環境要因の効果を「増幅」させる方向に固定しました。

      という順序で、それぞれの「キーワード」の違いが生じる訳です。

      中華では「富の分配」は「富を独占している者が自分の利益の拡大を意図して富を再配置する事」です。
      朝鮮では「富の分配」は「タカり、タカられる事」です。

      1. 合理的なら栄えるし、非合理的なら衰退して滅ぶか外敵に滅ぼされる。
        これは常に正しく、中華はあれが合理的です。(近代においては合理的ではなくなったので滅びたのですが。)
        民にも人権はないが一定の富の配分がきちんとあるわけです。(なくなれば衰退して革命が起こるため。)

        しかし、朝鮮は非合理的で衰退するけれども滅びない。宗主国の体制保障ゆえではあるのですが、あの規模の国では他にちょっと類例がない。「文化」というにはあまりにも…

      2. 仮説「非合理的でなければ、王朝を維持できない」

        ああ見えても、朝鮮半島は「そこそこ生産力が有る」ので、
        「きちんと国を運営すると、モンゴリアや中原の王朝と【対抗】できるようになってしまう」。
        で、生産力の限界で「対抗はできるけど、いずれは負ける」。
        高句麗は、そうだったのではないでしょうか。

        なので「歴史を忘れた民族には未来が無い」ので「歴史に学んで、わざと、国をきちんと運営しない事にした」のです。
        非合理的に国を営んで「無様な王朝」になって見せる。

        そうすると「ちょっと逆らっても、腹を出してひっくり返って見せれば、ただやんちゃが過ぎただけと、目こぼししてもらえる」。
        この完成形が「李朝」です。

        「対抗」よりも「退行」を選んで「太閤」に酷い目に遭わされたけど、中華様に助けてもらって「大幸」だった、と。

        1. >なので「歴史を忘れた民族には未来が無い」ので「歴史に学んで、わざと、国をきちんと運営しない事にした」のです。
          非合理的に国を営んで「無様な王朝」になって見せる。

          >「対抗」よりも「退行」を選んで

          退化した生命。蚕みたいなものですかな? 蚕は、人間が飼うという意味では逃げないし扱いやすい生物です。しかし、蚕単独では自然界で生きていけません。あまりにも筋力が貧弱なのでエサである桑の葉に張り付いていることすらできません。木に登る以前の問題です。自分でエサを採るどころか、エサに辿り着くことすらできません。上げ膳据え膳ですね。

          しかし、虫ですらお蚕様と呼ばれるのに朝鮮ときたら……。

        2. 子どもの頃、母の実家で蚕を養っていました。
          蚕の幼虫を手で遊ばせると、とても「可愛い」のです。

          可愛くて、産み出す繊維はとても綺麗で宝物で、養う人に「恵み」をもたらしてくれます。
          ですから「蚕の世話をする」のは、養蚕農家にとっては「嬉しい仕事」だったと思います。

          可愛くなくて(むしろ醜くて)養う人に恵みをもたらさない、どころか「養う人」を罵倒する、そういう虫は「駆除」されるのが当然ですよね。
          「要の地を、それが占めている」それだけが「養われる原因」だった訳ですが、もう「枢要の地」ではなくなってますし。

        3. すみません、個人的に今一つしっくりしません。
          これらのお話は為政者がそうであった、ということには同意できるのですが、民衆は為政者の姿を鏡に映しただけなのではないかと思うのです。

          平安時代(特に摂関期)、ほとんどの技術が衰退し、民衆は搾取されるだけの存在になり果てました。やがて院政が始まり、一方で郡司層改め在庁官人が武士となって自立することで改善されますが、この間、平安貴族、局限すると藤原氏は両班そっくりに思えるのです。
          大和朝廷成立から奈良時代にかけて、貴族となったのはもともとは小地域に君臨した豪族でした。彼らはもともと民衆と共に農作業を行い、氏神を祀ってきました。
          しかし藤原氏は異質です。不比等が権謀術数の限りを尽くして成り上がり、自らの氏神さえ創造、というか盗み、他の豪族を蹴落とし陥れて、とうとう貴族=藤原氏、という状況をもたらします。民とともにあった経験のない彼らは民衆を収奪の対象としか見ませんでした。藤原氏の支配が続いていれば、日本も李朝と変わりない歴史を歩んだのではないかと思うのです。

          人心がすさみ荒廃していた米沢藩は鷹山公一人の登場ですっかり見違えるようになり、「棒杭の商売」が成立するようになります。もし一人でも名君が出れば、李朝もあそこまでひどくはならなかったのではないでしょうか。

          1. >この間、平安貴族、局限すると藤原氏は両班そっくりに思えるのです。

            何をもって『両班』的とするかにもよると思いますが、腐敗貴族の典型、特権階級における効率的な稼ぎを追求すると、自然に『両班』的になっていくのではないでしょうか。ある種の収斂進化とも言えると思います。一歩間違えば、日本やその他の国でも朝鮮化が進んだ可能性はあると思います。

            >もし一人でも名君が出れば、李朝もあそこまでひどくはならなかったのではないでしょうか。

            どうでしょうね…‥、たられば論なので言っても仕方ないことですが、金玉均の如く暗殺されて終わりのような気もします。
            朝鮮そのものの『修正力(歴史の修正力のような何か)』もさることながら、お隣の宗主国様からの『修正力』も半端なく、隙を生ぜぬ二段構えの体を成しています。何かアクションを起こして良い方向にもっていこうにも『修正』されるのです。
            人心がすさみ荒廃している状態の方が望ましいと思っている者たちが、そっち方向へと『修正』して行っているように見えます。

        4. 『なぜ中華は「拒絶」されるべきなのか』という大テーマに関連しますが、
          キサラギ=アリスさんの仰るように「庶民の在り方」は「権力構造を映す鏡」です。

          一方で庶民は、権力との距離を保って「生き残り」を図ります。ただ搾取されているだけでは無いと思います。
          ですから権力構造が腐敗すれば「距離を保つための工夫」をして、距離を保つのが難しくなると「反抗」します。

          平安時代に貴族が腐敗し、庶民の指導層が武士となって「権力構造そのもの」を変えたのは、そういう事だと思います。
          それも室町時代に腐敗して、戦国時代を経て「新しい封建構造」に変わりました。

          中国でも、同じように、庶民は権力と距離を取って生き残りを図り、いざとなれば「反抗」が巨大化して王朝が倒れ、新しい権力構造が成立します。
          朝鮮では「それ」が起きません。庶民は行動を起こせないまま、権力内部の主導権争いに終始します。それが1,000年以上も続いている訳です。

          日本では「権力構造」が「健全化」へと向かいます。
          文化の基層に「健全性」が有るからだと思うのです。

          中国では、権力構造が「中華化」する度に「腐敗しやすい」方向へ向かいます。
          朝鮮では、権力構造が「変化せずに、じっくりと腐敗」して来たのですね。
          五寸釘さんが仰るように「名君が多少出たぐらいでは、どうにもならない」のです。
          どちらも、つまり、
          文化の基層に「腐敗」が有るから、だろう、と。
          そして、近代にいたって、そこに「腐敗増強成分」が…

          ※多分「権力の腐敗」の主たる要因は「庶民感覚との乖離」です。自覚して「生活感覚」を庶民と近く保とうと努力すれば、権力は健全性を保っていられます。

          これから、じっくりとそこを考察します。
          最初のテーマ:中華思想において「人」とは何であるか。
          ※「中華思想」とは「現代中国まで連綿と連なる、漢文明圏特有の思想・価値体系」を指す事にします。
          他にも「自分のところが最優秀みたいな中華思想」は、いろいろ有るので、「中華思想」という用語を「漢文明の場合」に限定して使用します。

          続きは、別にスレッドを立てます。

          1. 権威・権力構造が崩れて秩序が再構築される場合、健全化に向かいます。自由競争となるので正しい(政治なら民を富ませた)者やシステムが勝ち残るためです。
            一方、権威・権力構造が固定化されると腐敗します。競争が働かなくなるためです。これが限界に達すると崩壊し再構築に向かいます。
            これは、どんな社会、どんな組織でも基本的には成り立つと思います。

            外圧がほぼ無かった日本においては概ね成り立っています。(これは幸せなことです。「勝った者が正しい=正しいものが勝つ」が成り立っている社会は、健全な精神をもたらしますから。)
            例外は律令と近代憲法の時代です。外部の権威が自由競争の結果ではなく一方的に導入されたからです。

            中華の問題は2つあります。(中華以外のユーラシアの帝国も似たようなものでしょうが。)
            遊牧民の征服により外部から一方的に権威・権力構造が導入されることが定期的にあります。(元・清だけではなく、隋唐や宋ですら正統は外部です。古代の周・秦も西戎です。)
            そして、「中華」が成立した後は、遊牧民に対抗するために早急に中央集権体制を固める必要があります。これは、すぐに腐敗が始まることを意味します。
            中華の場合、広大で豊かなため腐敗が限界に達するまでが長期に渡ります。結果、自力では再構築ができず外部の力による一方的な再構築を許すことにもなります。

          2. 「腐敗」について

            原因は合成の誤謬です。囚人のジレンマみたいなもの。

            民は、腐敗行為を行うと自分の利益になることは当然知っていますが、全体利益を損なうこともまた知っています。ただし、全体の損害を皆で折半すると自分の利益を上回らないことも知っており、自分だけやると得だというまでは知っています。

            さて、2人いて全体の損益は折半するとし、損益が以下のようになっているとします。
            行う:自分は+2、全体は-3
            行わない:自分は±0、全体は±0

            他者が行う場合の自分の利得は、自分も行うと+2-3=-1、行わないと-3/2=-1.5。
            他者が行わない場合、自分だけ行うと+2-3/2=+0.5、行わないと±0。
            どちらにせよ、行う場合が得なのです。その結果、2人とも行い、2人とも損害を受けるのです。

            行わない倫理的な「善人」は最悪の損害を受け、「善人」が多いほど、行う合理的な「悪人」が栄えます。全体が維持不可能になるまで。
            倫理では止まりません。「善人」を作り出して食いつぶすだけです。法治(刑罰)でも難しい(それを行う末端もまた腐敗するから)。

            これを抑制する動機があるのは、全体の損益に責任を持つ者だけです。折半ではなく、全体の損益の多くが自分の損益になる権利(義務)を持つ者だけです。
            はい。中華においては、原理的には皇帝陛下だけです。理解しない無能なら腐敗で滅びます。力のない無能なら打倒されます。有能ならば過労死します。太古から習近平に至るまで同じです。

            解決することができるのは、全体の損益を「多め」にとる権利と義務を持つ者を増やすことだけでしょう。法の支配により分権することです。
            そのための権利と義務を持たせた政治家や官僚に清貧を求めるのは逆効果です。「庶民感覚」が庶民と同じ損益を得ることなら間違いです。
            「庶民感覚」により全体の損益を把握して自分のものだとすることなら正しい。(庶民が-1なら自分は-10。庶民が+1なら自分は+10とってよく、そのために庶民を+1にするのが健全な権力者。)

            中華「分権なんかしたら分裂して外国に支配されるじゃないか」朝鮮「んだ。んだ」
            はい、(皮肉でも何でもなく)その通りです。ゆえに腐り続けることでしょう。

          3. mottonさんへ
            レスありがとうございます。
            なるほど「数値で説明」してもらうと「腐敗」が「有効性と必然性がある」と、分かりますね。

            私が考察しようとしているのは、どうやら「そこ」ではなくて「中華思想は、その【腐敗】を、経済原理的にではなく、観念的に正当化する、という現象について」のようです。
            それも、再認識できました。

            意見の交換によって、こういう風に「多面的に」考察を進められると、楽しいです。
            数理的・経済学的方法は、私には「視野になかなか入らない」ので、なおさらwww

  11. 「七誌語の謎」に、また一つネタが。

    「どうして中国は拒絶されるべきなのか」について思う所を書きます、と予告したら、
    「それがなぜ議論になるのか、不思議だ」と言われました。

    それだけなら、
    「ああ、論議を深めることなく、自分の短慮で出した結論だけを【絶対視】するという人は、そう思うかもな」です。
    「議論無しに拒絶しなければならない」のでしょうが、
    それは「まさに中国のやり方」であって、「なぜ、それが人類の敵なのか」を議論しようとしているんだけどね。

    ところが、ここでいつものように離れ業が、
    その「なぜ中国は拒絶されなければならないか」を議論すると、
    「アメリカにお引き取り願う」という話になるらしい。
    どこで、すり替わるんでしょう。
    いやあ、不思議だ。

  12. さてと、寂れてるから、ここを使いましょう。
    大阪の「フジ住宅」という住宅メーカーが、勤務していた在日韓国人女性に「ヘイトスピーチ」で訴えられた裁判。
    控訴審で「一審より賠償金(慰謝料)が上乗せされた」という話。

    この会社の会長が「正しい歴史認識を普及させるために」、「韓国人はウソをつく国民性」という文書を社内に配布したのだとか。
    で、「ヘイトスピーチで精神的苦痛を受けた」と損害賠償請求訴訟を起こされた。
    請求額は3300万円で、控訴審が(上乗せした分含めて)認めた額は132万円+文書配布禁止命令。

    これは、妥当な判決だろうかと、考えてみましょう。
    「国民性がどうのこうの」は「意見」だから、表現の自由に照らして「その表出」を認められるべきで、「不法行為」にあたらない。
    つまり損害賠償請求を認めるべきではない、というのが被告(会社と会長)の主張。
    「ヘイトスピーチ」に該当するので「不法行為」である、というのが原告の主張。

    論点は、
    1、ヘイトスピーチの定義
    2、ヘイトスピーチは不法行為を構成するか
    3、この案件は「具体的に、どこが、ヘイトスピーチなのか」

    1. >とろいやさん
      >1、ヘイトスピーチの定義
      はっきりとした定義は私には解らんです。あえて言うなら、「特定のグループへの虚偽の言説を流布し、そのグループへの攻撃を煽ること」でしょうか(ただの思い付きで深くは考えてません)。事実なら、そりゃただの批判意見でしょう。
      ヘイトスピーチを糾弾してる人たち自体、定義をはっきり決めてないように思えます。フィーリングで言ってるでしょアレw その方が都合がいいんでしょうね。人権屋には飯のタネでしょうし、アウトなラインをはっきりさせないことで意見者を委縮させることができます。

      2、ヘイトスピーチは不法行為を構成するか
      1番の定義がはっきりしないことにはなんともかんとも……。
      1番で提示した私の定義だと「騒乱」とか「侮辱」とか「名誉棄損」が不法の根拠になるのでしょうか。既存法でも運用次第で対応できそうですけどねぇ。

      3、この案件は「具体的に、どこが、ヘイトスピーチなのか」
      これはまぁ、言いたいことは解るんですが、言い方が悪かったんでしょうね。 「韓国人の国民性」という不特定多数のグループでくくったのと、「ウソをつく」というあいまいな表現が問題でしょう。「韓国における偽証・誣告・詐欺の件数と、日本におけるそれらの比較」とかなら問題なかったんでしょう。これならただの統計情報ですし。「ウソをつく」というあいまいな表現でなく、数字を示して論拠を明確にすべきでしたね。そのうえで、「このような傾向があるので、韓国人の発言を鵜呑みにせず、その都度真偽を確認するようにしましょう」というなら、まぁ意見と言えるのではないでしょうか。
      あと、「真偽の確かめ方」ですが、「数字」を見るといいです。もちろん「見る」だけじゃなくて、「比較し考える」のです。そうすると、韓国の提示する「数字」がおかしいことに気付く。前の文章で「数字を示して論拠を明確にすべき」と書きましたが、何故か韓国って「数字」を盛り込んでくるんですよね、それも「デタラメな数字」を。イアンフの「20万人」とか。デタラメでも数字を入れると一見信じられやすいと本能的にわかってるんでしょうか。まぁ、それが弱点になってるので、突きやすいんですが。

      以下、例題。
      「オランダ最高峰の山は、標高2143mスケベニンゲン山である」
      上述の「」内の文章は嘘である。常識的に考えると明らかにおかしいところがある。どこがおかしいのか解説しなさい。なお、山の名前は実在するオランダの地名からとったがツッコんではならないものとする。(ヒント※前述のとおり数字に着眼すると良い。あとは自分の常識と照らし合わせれば……)

      1. 例題の答え。
        「オランダ最高峰の山は、標高2143mスケベニンゲン山である」
        これのどこが明らかにおかしいのか。
        まず、予備知識としてオランダは低地平地の国です。割と有名な話ですね。
        それを踏まえて考えると……2000m級の山なんてありえません。
        土地柄を知ってると噴飯ものなんですが、予備知識のない人に吹き込むと、具体的な数字(ただしデタラメ)を示されてるので、へぇーと信じてしまうでしょう。

      2. 数字を入れる事によって「もっともらしく」する場合は、
        微妙な数字を入れるのがコツです。

        オランダが「低地ばかりの国」というのは「多くの人が知っている」ので、さすがに「2000メートル級」の数字だと「騙されない人が多い」のではないですか。

        こういう時は、
        「オランダが干拓で国土の半分が出来た国で、低地ばかりという事は、みなさんご存じと思いますが」と前振りして、
        「しかし、オランダにも【山】は有ります。それは海抜287メートルの【マーストリヒトホルン山】です」
        これなら、騙される人が、かなり有るのではないかな。
        ※正解は、322.5メートルの「ファールゼルブルク山」。

        ちなみに、
        「日本の都道府県で、海抜500m以上の山が無いのは、沖縄県と千葉県だけである」は、どうですか?

        1. >とろいやさん

          例題ですので、極端な例を用いてます。
          仰る通り、ウソがバレるリスクを考慮すれば微妙なラインをせめるべきでしょうが、あいにくなことにkの国の方々は誇張を好む傾向にあるようです。そうしないと、元の数にちょこっと盛っただけでは被害者かどうかも怪しいレベルですし……。
          あと、意外と誇大な嘘もバレにくいと思います。「まさかそんな大嘘付かないだろう」と思い込むので。バレたら後は総崩れですが。

          >ちなみに、
          「日本の都道府県で、海抜500m以上の山が無いのは、沖縄県と千葉県だけである」は、どうですか?

          ホントに微妙なラインですね。
          沖縄は高い山ないイメージでしたけど、与那覇岳(503m)と於茂登岳(526m)は500m超えてますね。ググっちゃいました。

          最後にもう一つ数字のトリックを。
          同じこと言ってるのに全く印象が変わります。
          「ppm」というのを聞いたことがありますよね。温室効果ガス濃度を表しているアレです。実は「ppm」は「%」に変換可能です。

          「%」は日本語にするなら「百分率」、全数を百とするならそのうち対象はどのくらいかを表します。
          「ppm」はは日本語にするなら「百万分率」、全数を百万とするならそのうち対象はどのくらいかを表します。
          計算式もほぼ一緒。何(分子x)分の何(分母y)に100かけたら(x/y*100)「%」になります。100の部分を1000000に変えたら(x/y*1000000)「ppm」になります。

          1ppm = 0.0001%です。500ppmなら0.05%です。こう書くとなんだか少なく感じますね。

        2. 五寸釘さんへ
          なるほど、「ウソをつくときも、相手の【性格】に合わせて」ですね。
          特亜の人って「数字が過剰なほど、本当らしく感じる」のかも知れませんから、確かに「いかにもな数字」より「無意味におおげさな数字」の方が効果的かも。

    2. ヘイトスピーチから話を始めると間違いで、訴訟は「精神的苦痛を受けた」なんですよ。真実の摘示でも名誉毀損が成立するように、ヘイトスピーチかどうかは副次的。

      ヘイトスピーチを主題にしたい原告と被告の目的が一致したみたいな裁判。判決文も「お前らなぁ」と言いたいような感じ。

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