新・議論エントリーその3

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“新・議論エントリーその3” への508件の返信

  1. 中臣鎌足は百済人だったのではないかという説だが・・・
    中臣鎌足の墓だとして阿武山古墳(あぶやまこふん)というのがある。
    阿武山古墳は、大阪府高槻市奈佐原・茨木市安威にある古墳で国の史跡に指定されている。
    所在地は大阪府高槻市奈佐原・茨木市安威である。
    1934年に京都大学の地震観測施設の建設中、土を掘り下げていて瓦や巨石につきあたったことから偶然に発見された。
    通常の古墳にあるような盛り土はなく、浅い溝で直径82メートルの円形の墓域が形成されていた。
    墓室は墓域中心の地表のすぐ下にあり、切石で組まれて内側を漆喰で塗り固められており、上を瓦で覆われ地表と同じ高さになるように埋め戻されていた。
    内部には棺台があり、その上に、漆で布を何層にも固めて作られ外を黒漆・内部を赤漆で塗られた夾紵棺きょうちょかんが日本で初めて発見された。
    棺の中には、60歳前後の男性の、肉や毛髪、衣装も残存した状態のミイラ化した遺骨がほぼ完全に残っていた。

    鏡や剣、玉などは副葬されていなかったが、ガラス玉を編んで作った玉枕のほか、遺体が錦を身にまとっていたこと、胸から顔面、頭にかけて金の糸がたくさん散らばっていたことが確かめられた。
    当初からこの地にゆかりの深い藤原鎌足が被葬者だとする見方もあったが、これは平安時代中ごろから「多武峯略記」などに、「鎌足は最初は摂津国安威(現在の大阪府茨木市)に葬られたが、後に大和国の多武峯に改葬された」との説が紹介されていたからでもある(実際に、江戸時代には阿武山の近くの安威集落にある将軍塚古墳が鎌足公の古廟とされて祀られていた)。

    1982年、埋め戻す前のエックス線写真の原板が地震観測所から見つかった。
    1987年分析の結果、被葬者は腰椎などを骨折する大けがをし、治療されてしばらくは生きていたものの、寝たきり状態のまま二次的な合併症で死亡したこと、金の糸の分布状態からこれが冠の刺繍糸だったことが判明した。
    しかも漆の棺に葬られていたことや玉枕を敷いていたことなども考えると、被葬者は最上位クラスの人物であったとされる。

    カニ太郎がビックリしたのは、この副葬品である玉枕の復元品の写真を見たときである。
    見事な玉枕だ。
    そして、金糸。
    なんとこの金糸、長さが100m以上あるそうだ。
    復元すると豪奢な織冠の形になるという。
    こんな豪奢な玉枕と織帽を副葬品として埋葬される高貴な人で朝鮮式墓、死因が落馬・・・
    これらの副葬品と分析結果が鎌足(落馬後に死去)を示すことは明らかだ。
    この冠がおそらく当時の最高冠位である織冠であり、それを授けられた人物は百済王子の余豊璋を除けば大織冠の鎌足しかいない。

    中臣鎌足は669年10月、山科の御猟場に狩りに行き、馬上から転落して背中を強打した。
    天智天皇が見舞うと「生きては軍国に務無し」と語った。
    すなわち「私は軍略で貢献できなかった」と嘆いているのである。
    これは白村江の戦いにおける軍事的・外交的敗北の責任を痛感していたものと考えられている(なお、白村江の戦いが後世の長屋王の変と並んで『藤氏家伝』に記載されていないのは共に藤原氏が関与していた事実を忌避するためであるとする説がある)。
    天智天皇から大織冠を授けられ、内大臣に任ぜられ、「藤原」の姓を賜った翌日に逝去した。
    享年56であった。

  2. 実はカニ太郎が中臣鎌足にこだわるのには訳がある。
    藤原氏と現代の皇位継承問題について、ある疑問をもっているからだ。

    よく言われる皇位継承案に、男系を維持するために旧宮家から男子を養子に迎え入れる、というのがある。
    前にも何度も書いたが、旧宮家、即ち伏見宮系と現在の皇室の男系のつながりは、伏見宮貞成親王まで遡る。
    伏見宮貞成親王とは1428年に即位された第102代後花園天皇の父のことだ。
    後花園天皇の弟の貞常親王が伏見宮を継承し、旧宮家はいずれもこの伏見宮貞常親王の子孫なのだ。
    つまり旧宮家と皇室の男系は、みんな600年前に分かれた事になる。
    まあこれはこれでいいのだが、実は皇室と家系的にはもっと近い男子がいる。
    それが、藤原氏だ。
    「皇別摂家」といわれる家系で、藤原氏の嫡流で、摂政・関白に昇任することができた近衛家・九条家・鷹司家・一条家・二条家の5つの摂関家のうち、近衛家、鷹司家、一条家にはそれぞれ皇族男子が養子に入って家を継いでいる。

    ・近衛家には1599年、後陽成天皇の第四皇子が養子に入り。

    ・一条家には1609年、後陽成天皇の第九皇子が養子に入り。

    ・鷹司家には1743年、東山天皇の第六皇子、閑院宮直仁親王の第四皇子が養子に入った。

    この三家とも既に本家は男子が断絶し、養子を迎えたため、皇室の血を伝えてはいないが、分家あるいはこうした家から養子に迎えられた先で男系が続いているところがあるようなのだ。

    カニ太郎はここが疑問なんだ。

    なんで男子養子案で、旧宮家ばかりで藤原氏系が無視されているのか?
    もしかしたら、藤原氏の始祖である中臣鎌足が百済系だからか?
    それとも、藤原氏が外戚としてずーっと皇室に影響を与えて来てるので、そこの権力構造に問題があるのかも?
    だとしたら、中臣鎌足をもっと調べねば、と、思ったわけだ。

    まあ、とにかく、1400年代初頭に皇室から分かれた旧宮家よりも、血統という点では藤原氏系の方が皇室に近いという事実が多くの日本国民には隠されていることは事実だ。

  3. さて、その藤原氏・・・つまり中臣鎌足のことだが、日本書紀に最初に登場したのは、巻24皇極天皇の条だ。
    このときの記述順序が実に怪しい。
    まず、皇極天皇3年の正月、中臣鎌足は神官の話を断ったという話が唐突に出てくる。
    そして軽皇子と中臣鎌足が仲が良いという話へと繋がり、中大兄皇子との蹴鞠での出会いの章へと話しは流れる。

    軽皇子というのは第36代孝徳天皇(在位:645年7月12日- 654年11月24日)。

    つまり、乙巳の変についての最大の疑問、何故中大兄皇子は天皇に即位しなかったのか・・・?
    の答えが、実は黒幕は孝徳天皇だったから、との根拠になっているわけだ。
    日本書紀の記述によれば、中臣鎌足は孝徳天皇とたいへん仲がよかったのだから。
    しかし孝徳天皇が在位した9年間は唐、新羅べったりの政策だったわけで、つまり中臣鎌足、中大兄皇子が百済系で百済友好のために蘇我氏を討ったという説とは整合しない。
    ゆえに、この不一致を正すには、中臣鎌足が孝徳天皇と共に蘇我氏を討ったのは、単純に唐からの倭への外圧であった・・・と見ることができたら実にスマートである。と思ったら、そのような裏付けがあった。

    まず考えてほしいのは、皇極天皇は何故、生前譲位したのだろうか、ということだ。
    実はこれ、唐からの圧力だったとも考えられるのだ。

    643年に唐は新羅に対して女帝を止めろといっている。
    「国女君,故為レ鄰侮,我以二宗室一,主二而国一」という提案をしている。
    (『新唐書』高句麗伝)。

    これは対高句麗戦において、新羅援軍の条件として女王を廃し唐王族を王とせよとの提案であった。
    新羅ではこのせいで、647年に「女王不能善理」を主張し女王の廃位を計画した毗曇ひどんの乱が発生している。
    新羅同様に、皇極女帝をようする倭国も,対岸の火事では済まなかった。

    ・唐太宗による高句麗親征(645年)、
    ・百済領「任那」の新羅への返還命令(649年)、
    ・倭国への新羅援助命令(654年)、

    と立て続けに外圧がかけられた。

    とくにこの、654年の新羅への援助命令の年、孝徳天皇を浪速宮に残して中大兄皇子は飛鳥へ移り、孝徳天皇は失意のうちに崩御した。

    とても無関係とは思えない。

    高句麗の百済接近という事態に対して,唐に距離をおき,欽明期以来の蘇我氏路線を継承し,百済と親密な関係を維持していこうとする独立派と,超大国唐に迎合する親唐・新羅派の路線対立が存在したというわけだ。
    おそらく,大化の改新の中心たる軽皇子こと孝徳天皇は、女帝を承認しない唐に迎合するために、皇極天皇の強制退位を選択し,男帝として即位したのだろう。孝徳天皇即位の645年は唐の太宗の高句麗遠征と同年だ。

  4. ここで当時の女帝について少し整理してみたい。
    日本における皇極天皇の時代、新羅においては善徳女王、真徳女王の時代であった。
    そして、最も無視できないのが唐の則天武后である。
    少し纏めてみよう。

    皇極・斉明天皇(642年~645年、655年~661年)
    善徳女王(632年~647年)
    真徳女王(647年~654年)
    則天武后(624年~705年)

    則天武后は利州都督武士彠と楊氏(楊達の娘)の間に624年に生まれた。
    諱は照という。
    生家の武氏は、唐初時代の政治を担った関隴貴族集団の中では傍流に列する家系であったが代々財産家であったため、幼い頃の武照は父から高度な教育を与えられて育った。
    しかし、12歳のときに父が死に、武照は異母兄と従兄に虐げられる生活を送ることとなった。
    637年、太宗の後宮に入り才人(二十七世婦の一つ、正五品)となった。
    名を媚と名付けられた。
    ほどなく宮廷に「唐三代にして、女王昌」「李に代わり武が栄える」との流言が蔓延るようになると、これを「武照の聡明さが唐朝に災禍をもたらす」との意ではないかと疑い恐れた太宗は、次第に武照を遠ざけていった。
    こうした状況下で、太宗の子である李治(後の高宗)が武照を見出すこととなった。
    太宗に殺害されることを恐れた武照は、李治を籠絡したとおぼしく、李治は妄信的に武照を寵愛するようになる。
    太宗の崩御(649年)にともない、武照は出家することとなったが(25才)、額に焼印を付ける正式な仏尼になることを避け、女性の道士(坤道)となり道教寺院(道観)で修行することとなった。
    その頃の宮中は帝位を継いだ高宗のもと、皇后の王氏と、高宗が寵愛していた蕭淑妃が対立し、皇后は高宗の寵愛を蕭淑妃からそらすため、高宗に武照の入宮を推薦した。
    武照が昭儀(九嬪の一つ、正二品)として後宮に入宮すると、高宗の寵愛は王皇后の狙い通り蕭淑妃からそれたが、王皇后自身も高宗から疎まれるようになった。
    則天武后は624年生まれで、天智天皇より2歳年上である。
    649年、則天武后25歳の時、太宗が死に、道教寺院に出家している。
    655年、則天武后29歳の時、高宗は武照を昭儀から新たに設けた宸妃(皇后に次ぐ位)にさせようとした。
    宰相の韓瑗と来済の反対で実現はしなかった。
    655年10月13日(11月16日)、高宗は詔書をもって、「陰謀下毒」の罪により王皇后と蕭淑妃の2名を庶民に落として罪人として投獄したこと、および同2名の親族は官位剥奪の上嶺南への流罪に処すことを宣告した。
    その7日後、高宗は再び詔書を発布して、武照を立后すると共に、諫言した褚遂良を潭州都督へ左遷した。
    655年11月初旬、皇后になった武照は監禁されていた王氏(前皇后)と蕭氏(前淑妃)を棍杖で百叩きに処した上、処刑した。
    武皇后は高宗に代わり、垂簾政治を行った。

    660年、新羅の請願を容れ百済討伐の軍を起こし、百済を滅ぼした。
    663年、倭国・旧百済連合軍と劉仁軌率いる唐軍が戦った白村江の戦いにも勝利した。
    668年、高句麗を滅ぼした(唐の高句麗出兵)。

    なんと、百済を滅ぼしたのも、白村江の戦いも、高句麗を滅ぼしたのも、全て則天武后の垂簾政治の時代であった。

    1. 面白く読んでおりますよ。
      ただ、時折「記述が重複する事がある」のは注意して欲しい。

      それから、データを並べる時は「並べ方をそろえる」ように。
      皇極天皇・善徳女王・真徳女王は「在位年」で示しているのに、
      則天武后だけ「生没年表示」だと、分かりにくいです。

      感想を、少し、
      案外「天照大神」の「原イメージ」は則天武后だったのかもね。

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